この星の格闘技を追いかける

【2014‐2015】金原正徳「目標のために誰と過ごしたのか。その時間を持てることの方が幸せなこと」

Masanori Kanehara【写真】一度は諦めた夢を手にした2014年の金原。そこに至る長い道程に、彼の人となりを見ることができる(C)MMAPLANET

2014年が終わり、2015年が始まった。2014年を振り返り、2015年に臨む──MMAPLANET縁のファイター達の声を年末年始特集としてお送りしたい。

第4弾は一度は潰えたと思ったUFC出場を9月の日本大会で果たした金原正徳。日本人最強バンタム級ファイターという評価を長年得ながら、ズッファから声が掛からなかった。そして、UFC出場を諦めたこともあった。同時に金原にはUFC出場がならなくても、譲れない人間同士の絆が存在していた。

──UFCデビュー後にこれまでの古傷など手術をされた金原選手ですが、現在のコンディションは?

「あまり上向きではないです。1Rに貰った前蹴りで胸の筋肉が断絶していたみたいで、その胸が治らないですし、試合前に壊した拳も全快ではないです」

──もともとはヒジも悪かったと聞いています。

「そうですね。ヒジには痺れがありました。両ヒジに関節ネズミがたくさんあって伸びない状態だったので、試合後に手術をして関節ネズミを除去し神経を剥離しました。結果、痺れが軽くなり握力も戻って来ているので、そこは良くなってきています。ただ、胸と拳の方が今一つなので練習にも、まだ制限が出ている状態です」

──ではUFC2戦目という話はなかなかできない状況ですか。

「まぁ、そこは治らない、直らないって言っていてもどんどんと年を取ってしまう一方なので。割り切って次の試合の話はマネージャーのKさんには、『春ぐらいに試合を組んでほしい』という話はしています」

──万全とはいかない状況ですが、そのような話ができるようになった2014年を振り返ってもらえますか。2月でしたか……VTJの会場で金原選手から『UFCは諦めました』という話を伺ったとき、かなりショックを受けました。ついに夢を諦めてしまうのかと。それも致し方ない状況だったのですが。

「一番引っ掛かっていたのは年齢でした。いつまでも夢を追っている年齢ではないし、家族もできた。守るべき者ができた。そこに対し、いつまでも夢を追っていると……。自分一人だけ傷つくのは良いんですけど、嫁も傷ついて食えなくなっていくことを考えると、諦めざるを得なかった状況でした。そのなかでジムを始めるということも決断を下した、大きな要因になっています」

──UFCを諦める。それはMMAから身を引くつもりだったのでしょうか。

「完全にやめるのは無理だと思っていたし、趣味程度でやっていても日本人のある程度の人には勝てる自信もありました。だから、世界ということを考えないで──と。でも、やり切れていない部分は確かに残っていました。その葛藤と戦っていました」

──取材でもないなかで、その話を伺ったとき、自らの気持ちに踏ん切りをつけるかのような口調が記憶に残っています。

「自分もずっと我慢してやってきて……。例えば、××に勝てばUFCに出ることができる。〇連勝すれば出ることができるというゴールがあれば、そこに向かって頑張ることはできると思うんです。でも、ゴールもないし……ずっとモチベーションを保つことができるのかというと、それは難しかったです」

──金原選手より実績に乏しく、ファイター、関係者の間でも実力的に落ちると思われていた日本人選手がUFCと契約する現実を見て、諦めようと思った部分はありますか。

「今だから言えることですが、××君がUFCに出ることが決まったニュースを電車のなかでネットか何かで見たんです。正直、俺、泣きましたからね……電車のなかで。真面目な話、涙が出ました。で、ちょうどロータスの練習に行く途中だったんですけど、駅で北岡(悟)さんに会って。北岡さんが『こういうこともある』って慰めてくれた時に、また泣いてしまって……。

本当に悔しかったですね。う~ん、強い弱いというよりも、実績も違うし、やってきたことも違うという思いが自分のなかではあって。でも、UFCは自分を選ばない。自分には運がない。そういう星の下に生まれたのかなって。そういう思いを飲み込むしかなかったです。××君がって、ことじゃないんです。彼も一生懸命やってきたんだから。そこで、自分が選ばれないという現実が……」

──実力と起用、時の運。そういうものが巡り巡ってのUFC出場になる。その頃、身が入った練習はできていましたか。

「やるしかないですからね。俺から格闘技を取ると、本当に何も残らない。何もやることがない。酒も飲めないし、遊ぶ友達も今はいないし(苦笑)。ただただ練習して、ごまかすしかなかったという心境でした」

──その後、4月に北田俊亮選手と戦いました。その時はどのようなモチベーションを持っていたのですか。

「どうなんですかね。正直、北田戦の時の心境になると、ただ試合をしていたってことになってしまいます。とりあえず、試合をしないと練習を続けるモチベーションも保てない。だから試合をしたっていうことはあります。そういうのは相手にも失礼だし、もういっそのことってあの試合後には思いましたね」

──さきほど言われたマネージャーのKさんから、私のところに『自分がマネージャーでUFCが金ちゃんと取ってくれないなら、SさんでもFでも金ちゃんのマネージャーになってもらえれば』というメールが来たことがありました。

「俺、そこを周囲から言われるのが本当に辛くて。徳留(一樹)がUFCで戦うことが決まり、自分も徳留にも良くしてくれている人たちから、徳留のマネージャーのIさんに面倒を見てもらうべきだって言われ続けて……。でも、UFCに出られないのはマネージャーでなくて、自分がUFCから認めてもらえていないわけだから。

それなのに関係のない人たちが、Kさんのことを力不足のように言うのは、本当に辛くて……。俺は……そこは譲れない部分でした。『他の人のマネージメントを受けるなら、俺はUFCに出なくて良い』って」

──……。

「自分が無名の頃から、米国に行くと良くしてもらって。一緒にUFC出ようなって語り合った仲だから。まぁ、ちっぽけな夢かもしれないけど、自分がUFCに出るということよりも、その目標のために誰と過ごしたのか。その時間を持てることの方が、自分は幸せなことだと思うので。そのためには誰の力でUFCに出るってことではなくて、自分の力をUFCに認めてもらい、Kさんと一緒に出る──勝ちたいという気持ちでいました。それが自分の本音でした」

──結果、そのままUFCに出られていなくても良かった?

「俺はそれで満足です。Kさんと一緒にUFCを目指せた時間があった。それで満足でした。『間違っている』とも言われました。確かにUFCに出るという結果が出ていなかったので間違っていたのかもしれないけど、自分の想いはそっちの方が強かった」

<この項、続く>

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