【UFC84】天才BJ・ペン vs 苦労人ショーン・シャーク
いよいよ今週末に迫ったUFC84『ILL WILL』。24日(土・現地時間)MGMグランドガーデン・アリーナで行われる大会のプレビューを3日間に分けてお届けしたい。題して『Count Down to UFC84』。第一弾は、メインのUFC世界ライト級選手権試合BJ・ペン×ショーン・シャークについて――。
【写真】ついに念願のUFC世界ライト級のベルトを巻いたBJ・ペン (C) ZUFFA
MMAファンにとってBJ・ペンは、今更その足跡を振り返る必要がないほど、天才として認知されている存在だ。2000年7月ブラジリアン柔術世界選手権の黒帯部門で、非ブラジル人として初めて頂点にたったBJ・ペンは、「小さなプロモーションで戦って、お金にならないような試合はしたくない」と翌2001年5月までMMAデビューを控えていた。
そのデビュー戦の場は、UFC。ジョーイ・ギルバート、ディン・トーマスという当時のライト級トップファイターを下すと、3戦目で日本の至宝=宇野薫と対戦し、11秒でKO勝ちを収めている。
しかし、2002年1月に絶対有利という声を背景に挑んだ初の世界戦では、ジェンス・パルバーの驚異の粘りの前にスタミナをロスし、0-3の判定で最初の挫折を味わう。その後、UFCで2勝し、パルバーが返上したUFC世界ライト級のベルトをかけ、宇野との再戦。ここでもドローに終わってしまった。
と、BJは突如、UFCを離れ2003年10月、ホノルルでライト級世界一決定戦という名の下、五味隆典と対戦することになる。
ハワイ島の裕福な家庭に育った彼は、当時「ライト級のトップはUFCでなく日本マット」という声を受け、実兄がプロモートするランブル・オン・ザ・ロック(以下、ROTR)で、この1戦を実現させた。そして、あの五味を相手に打撃戦、テイクダウン、寝技と全ての局面で圧倒し、3R2分35秒チョークで一本勝ちを収めたのだ。
その3カ月後、UFCに舞い戻ったBJはライト級世界一の称号を胸にウェルター級に転向。マット・ヒューズを、これもチョークで下し、UFC世界ウェルター級王座を獲得する。天才の名を欲しいままにしたBJは、直後にその天才ゆえの決断、UFC離脱を決意する。
ズッファ体制となり、成長過程にあったUFCだが、MMAビジネスの中心は日本。ファイトマネー、知名度ともに、BJはUFCの現状に我慢できる状態にはなかった。それだけでなくライト級&ウェルター級で最強のライバルから一本勝ちを奪った彼は、「無差別、ヘビー級で世界一を証明する」ことに照準を合わせていた。
HERO’Sの前身K-1 ROMANEXで初来日を果たすと、地元ROTRでホドリゴ・グレイシーを下し、まずはグレイシー超えを達成。しかし、ヘビー級挑戦という夢は、HERO’Sのリングで当時無名に近い存在だったリョート・マチダに敗れ、断念。地元での再起戦で、ヘンゾ・グレイシーを下し、BJはUFC復帰を決意する。
「ハワイの友人たちに、リビングのTVで僕の姿を見てほしいんだ」。
TUFの成功により、全米でそのブームを巻き起こすUFCに、BJはウェルター級ファイターとして再登場することになる。しかし、北米のMMAブーム=ファイターのスキルアップは、天才の予想も上回っていた。
復帰戦となったGSPとの一戦で、僅差の判定負けを喫すると、そのGSPの負傷でチャンスが回ってきたUFC世界ウェルター級王座挑戦試合も、肋骨の負傷により失速、ヒューズにリベンジを果たされてしまう。ここで天才は、ライト級への階級ダウンを決意。と、共に、ようやくハードトレーニングに取りかかった。
TUFシーズン5のコーチ役で毎週全米の家庭に名前を売り、コーチ対決となったパルバー戦ではチョークで圧勝、6年越しの因縁に終止符を打つことに成功し、ライト級ファイター=BJ・ペンは復活を遂げる。
その直後に王者ショーン・シャークがステロイドチェックで陽性という結果を受け、王座を剥奪されると、今年の1月に王座決定戦でジョー・スティーブンソンを、2R4分02秒チョークで下し、BJは念願のUFC世界ライト級のベルトを巻くことになった。
グラップリング出身とは思えない打撃センス、そしてヒザの柔らかさを利したテイクダウンと寝技、デビューから8年、29歳になったBJは円熟味を増し、その天才ぶりをいかんなくオクタゴンで発揮できるように成長している。
しかし、誰からも畏敬の念をもって接せられるBJに対して、「全く尊敬していない」と言い切るのが、挑戦者ショーン・シャークである。
1999年のMMAデビュー以来、実に35戦(32勝2敗1分)のキャリアの持ち主は、ミドル級、ウェルター級、そしてライト級と常に己の肉体の限界に挑むようなファイトを繰り返してきた。
MMAブームが起こる以前に良質な中堅プロモーションが共存していた中西部、デンジャー・ゾーン(ダン・スバーンのプロモート)、アルティメット・レスリング、名マネージャーのモンテ・コックスが人材育成大会として開催してきたエクストリーム・チャレンジ、リアリティ・サブミッション・ファイティングでキャリアの序盤を過ごす。BJとは、対照的なステップ・アップを経験してきたシャークは、このころにカロ・パリシャンを下している。
2001年2月、UFCデビュー戦でティキ・ゴーセンを下すが、その後の連続参戦は果たせなかった。同日のセミファイナルで、BJは宇野と王座決定戦を行い、分けている。再び、地元中西部の大会に戻り、と同時に日本(パンクラス)、カナダ(UCC=現TKO)などでキャリアを重ねたシャークは、2002年3月にUFC復帰を果たす。ここで中尾受太郎、ベンジー・ラダックを下し、翌2003年4月25日にマット・ヒューズが保持するUFC世界ウェルター級王座挑戦することとなった。
五味もオクタゴン・サイドで見守った、この一戦でテイクダウン&エルボーという自身の得意技で敗れたシャークは、この敗戦から3年以上、UFCのオクタゴンに入ることはなかった。
PRIDE武士道に参戦し、上山龍紀をポジショニングで圧倒するが、地味で強いキャラクターが受け入れられず、日本定着もならなかった。
実はUFCから離れていた3年間で、シャークは13連勝しており、実に12試合で一本勝ち、もしくはTKO勝ちを収めている。たった1試合の判定勝ちが、この上山戦だった。
シャークの戦績を正当に評価したズッファは、彼を再びスカウトした。2005年11月にGSP戦をマッチアップ、この試合で敗北を喫したシャークだったが、ニック・ディアズを破りライト級転向を果たすと、2006年10月14日にケニー・フロリアンとのUFC世界ライト級王座決定戦で勝利し、ついに念願の世界のトップに就くこととなった。
しかし、苦労人の苦労は終わらない。昨年7月にエルミス・フランカを下し初防衛に成功したが、試合後のステロイドチェックで陽性反応が出て、1年間の試合出場停止と王座剥奪という憂き目に遭ってしまう。本人は、今もステロイド使用を否定し、ズッファ陣営もカリフォルニア州アスレチック・コミッションの裁定でなくシャークの擁護に回った。
スパイクTVで中継されるUFCファイターのドキュメンタリー番組「オールアクセス」で中継されたように、「食事は味を楽しむものじゃない。栄養分のことを考えて摂取するだけ。僕のデザートはこれだよ」とベビー・フードに貪りつくシーンなど、シャークのストイックな生活は、関係者の間に評判になっていたからだ。
このステロイド問題、シャークの控訴により、結果コミッションは半年間の出場停止という処分の軽減を言い渡す灰色決着となったが、ベルト剥奪の裁定は覆らなかった。
出場停止期間が明けた直後に、BJが王座に就いたわけだが、「BJはベストの一人。ただし、僕はオクタゴンでベルトを失ったわけじゃない」と、シャークは言い切る。
ライト級転向を気に、気ままな天才から努力する天才と進化したBJ・ペンと努力の人=ショーン・シャーク。ベルト、そして自らの存在意義を賭けて、24日にオクタゴンへ向かう。
1999年のMMAデビュー以来、実に35戦(32勝2敗1分)のキャリアの持ち主は、ミドル級、ウェルター級、そしてライト級と常に己の肉体の限界に挑むようなファイトを繰り返してきた。
MMAブームが起こる以前に良質な中堅プロモーションが共存していた中西部、デンジャー・ゾーン(ダン・スバーンのプロモート)、アルティメット・レスリング、名マネージャーのモンテ・コックスが人材育成大会として開催してきたエクストリーム・チャレンジ、リアリティ・サブミッション・ファイティングでキャリアの序盤を過ごす。
BJとは、対照的なステップ・アップを経験してきたシャークは、このころにカロ・パリシャンを下している。
2001年2月、UFCデビュー戦でティキ・ゴーセンを下すが、その後の連続参戦は果たせなかった。同日のセミファイナルで、BJは宇野と王座決定戦を行い、分けている。再び、地元中西部の大会に戻り、と同時に日本(パンクラス)、カナダ(UCC=現TKO)などでキャリアを重ねたシャークは、2002年3月にUFC復帰を果たす。ここで中尾受太郎、ベンジー・ラダックを下し、翌2003年4月25日にマット・ヒューズが保持するUFC世界ウェルター級王座挑戦することとなった。
五味もオクタゴン・サイドで見守った、この一戦でテイクダウン&エルボーという自身の得意技で敗れたシャークは、この敗戦から3年以上、UFCのオクタゴンに入ることはなかった。
PRIDE武士道に参戦し、上山龍紀をポジショニングで圧倒するが、地味で強いキャラクターが受け入れられず、日本定着もならなかった。
実はUFCから離れていた3年間で、シャークは13連勝しており、実に12試合で一本勝ち、もしくはTKO勝ちを収めている。たった1試合の判定勝ちが、この上山戦だった。
シャークの戦績を正当に評価したズッファは、彼を再びスカウトした。2005年11月にGSP戦をマッチアップ、この試合で敗北を喫したシャークだったが、ニック・ディアズを破りライト級転向を果たすと、2006年10月14日にケニー・フロリアンとのUFC世界ライト級王座決定戦で勝利し、ついに念願の世界のトップに就くこととなった。
しかし、苦労人の苦労は終わらない。昨年7月にエルミス・フランカを下し初防衛に成功したが、試合後のステロイドチェックで陽性反応が出て、1年間の試合出場停止と王座剥奪という憂き目に遭ってしまう。本人は、今もステロイド使用を否定し、ズッファ陣営もカリフォルニア州アスレチック・コミッションの裁定でなくシャークの擁護に回った。
スパイクTVで中継されるUFCファイターのドキュメンタリー番組「オールアクセス」で中継されたように、「食事は味を楽しむものじゃない。栄養分のことを考えて摂取するだけ。僕のデザートはこれだよ」とベビー・フードに貪りつくシーンなど、シャークのストイックな生活は、関係者の間に評判になっていたからだ。
このステロイド問題、シャークの控訴により、結果コミッションは半年間の出場停止という処分の軽減を言い渡す灰色決着となったが、ベルト剥奪の裁定は覆らなかった。
出場停止期間が明けた直後に、BJが王座に就いたわけだが、「BJはベストの一人。ただし、僕はオクタゴンでベルトを失ったわけじゃない」と、シャークは言い切る。
ライト級転向を気に、気ままな天才から努力する天才と進化したBJ・ペンと努力の人=ショーン・シャーク。ベルト、そして自らの存在意義を賭けて、24日にオクタゴンへ向かう。