【Special】月刊、青木真也のこの一番:12月─その弐─ライアン・ホール✖BJ・ペン~01~「幻のBJ戦」
【写真】青木が好きだったBJ・ペン (C)MMAPLANET
過去1カ月に行われたMMAの試合から青木真也が気になった試合をピックアップして語る当企画。
背景、技術、格闘技観──青木のMMA論で深く、そして広くMMAを愉しみたい。そんな青木が選んだ12月の一番、第2弾は28日に開催されたUFC232からライアン・ホール×BJ・ペンの一戦を語らおう。
青木の秘められたBJへの想い。そして、幻に終わったUFCでのBJとの一戦とは……。
──12月の青木真也が選ぶ、この一番。では2試合目は?
「BJ・ペンとライアン・ホールですねぇ」
──往時を知る者には寂しい一本負けでした。
「戦う気持ちがあったのか、分からないですね。勝ち負け以上にソコがあったのか、疑問でした。あの試合を見てしまうと」
──ライアン・ホールが仕掛ける手段として、ロールからの足関節は十分すぎるほど分かっていたはずで……。
「そうですね、むしろ対策なんてされ尽くされている動きでした」
──BJのトップコントロールの強さがあれば、あのような一本負けは本当に信じられなかったです。
「そこなんですよ。僕はBJのハーフをバシバシと切っていく、パスガードに憧れていたので。BJなら、普通にパスしてチョンチョンとやって終わりだろうって……。それでも、BJを見てしまう。そんな弱さが僕にはあります」
──もう既出になっているのか分からないのですが、青木選手にはUFCでBJと戦うという話がありました。
「ありましたねぇ。アレは2006年ですかね。菊池(昭)に勝った後だったから」
──修斗ミドル級(現ウェルター級)チャンピオンになり警察学校にいた頃でしょうか。
「そう、2006年3月ですね。今、日沖(発)と名古屋でジムをやっている前田桂さん(※当時LA在住で、多くの日本人選手の米国での練習や試合をサポートしていた。後に弘中邦佳や金原正徳、日沖らのマネージメントをしUFC参戦を実現させた)から連絡を貰ったと思います」
──実は私も前田さんから、その話を2006年4月にLAへ取材に行った時に教えていただいたことがありました。
「僕の認識ではUFCからそういう話があったと記憶しています。当時、修斗のチャンピオンになると、その先のメジャーに進めた。そういう時代背景はもう、今のファンには分からないかもしれないですね」
──ズッファ時代に入ると、宇野薫選手、桜井マッハ速人選手などが修斗王者からUFCで戦っていました。青木選手はそのオファーがあった時、どういう気持ちだったのですか。
「やったみたいと思いました。正直な話です。BJですからね。具体的な条件の提示もあって、まだUFCもそこまでもない規模感のオファーでした」
──当時、UFCはライト級が休止されていた時代でした。
「ハイ、僕は修斗の76キロのチャンピオンでBJとのオファーもウェルター級でした。真面目に米国でやろうと思っていました……警察を辞めた時にUFCへ行こうと」
──しかし、実現には至らなかったです。
「ちょうど差し込みでPRIDEからオファーを貰って。PRIDEの方が条件が良かったんです。6月のフジ・ショックの時でしたけど、あの当時だと皆、UFCよりPRIDEを選んだんじゃないですかね」
──やはり、それだけPRIDEという存在は青木選手にとっても大きかったのでしょうか。
「いえ全然違います。月給が貰えるという条件だったからです。ぶっちゃけの話、高島さん──そこです。強くなるために、その環境があった方が良いと思いました。これも僕の予想ですが、UFCのオファーの内容というのがPRIDEに伝え知られていたんだと思います。
だから、あの当時としては好条件で僕にオファーが来た。きっと、僕以外にそういう条件の選手もいなかっただろうし。それからDREAMになっても、ずっと月給は貰っていたんです(笑)。なぜ、青木はUFCに行かなかったのか。ソレが理由です」
──時代がDREAMに移り、ライト級GPの決勝でエディ・アルバレスを破った時だと思います。当時のゴン格で青木選手のインタビューをし、あの頃は青木選手も日本を盛り上げるためにUFCの話題は乗り気ではなかったのですが、BJに関しては凄く良く話してくれました。
「BJ・ペンのことが好きだったんだと思います。まずムンジアルのチャンピオンですよね。ひたすらハーフガードを切るスタイルで、リオデジャネイロでムンジアルが行われていた時代に、アメリカ人で初めて黒帯の世界王者になった。そういう意味でも、BJを越えるアメリカ人柔術家はいないですよ。
それとパスガードなんです。僕はガードファイターだから、MMAファイターとしてパスガードが弱かった。で、BJが五味とハワイで戦った。あの時、僕が今使っているワキ差しバスで、ずっと五味のガードを越えていったんです。あれが凄く印象に残っていて。
UFCで戦っている時もそうだし、日本でドゥエイン・ラドウィックに勝ったり、リョートとヘビー級で戦ったりしてファンタジーで……。ムンジアル後もBJが最高でした」
──その青木選手のBJへの想いは、DREAMの原稿チェックで2段分ぐらいのザックリ削除されたので(笑)、ファンに伝わることがなかったんですよね。
「今からすればUFCでBJと戦わなかったから、頑張ることができたというのはあるかと思います。そのBJが、ライアン・ホールにあの負け方というのは……ということなんです」
<この項、続く>