この星の格闘技を追いかける

【Gray-hairchives】─07─July 28th 2018 Chatri Sityodtong

「厳しいからトライしないという生き方をしていれば、今の私はない

Chatri CEO【写真】日本のインタビューでは恐らくは初めて、チャトリCEOが実母や米国生活を振り返ったインタビューであったと思う (C)ONE

いよいよONE日本大会「A NEW ERA」の開催まで1カ月強に迫ってきた。8月23日の記者会見からどれだけONEの影響力が、日本のMMA界で強くなっただろうか。

このムーブの核となっているのが、チャトリ・シットヨートンCEO&チェアマンであることは間違いない。

Gray-hairchives─1995年1月にスタートを切った記者生活を、時事に合わせて振り返る──第7弾はまだ半年前ではあるが、Fight & Life 68号に掲載されたチャトリ・シットヨートンのインタビューを再録したい。

【後記】
初めて取材をしたのは2011年9月、その後も幾度となく話を訊く機会があったが、インタビューで尋ねる内容はONEとEVOLVE MMAの事業に関してのみという大前提が存在した。

そして多忙のチャトリCEO故、インタビュー時間は5分に限定されたり、取材が見送られることもあった。昨年7月のフィリピンのインタビュー、広報部ですらチャトリCEOのスケジュールを把握できれおらず、直接のやり取りの末、初めて1時間以上のロングインタビューができる機会に恵まれた。

そして生年月日すら明かすことのないチャトリCEOが、その人生、母の教え、ムエタイとの出会い、米国でのチャレンジ──さらにONEとイヴォルブMMAを創った理由──そして、ONE日本大会について英語と日本語を交えて熱く語ってくれた。

日本の格闘技界を席巻するチャトリCEO、その熱さの原点が理解できた──記者生活においても非常に意義深いインタビューとなった。


──チャトリ代表が、最初にマーシャルアーツに興味を持ったのはいつのことなのでしょうか。

「もう随分と昔の話だよ。知っていると思うけど、私は父親がタイ人で母親(小松道代さん)が日本人だ」

──ハイ。

「9歳の時、その父がルンピニースタジアムに連れていってくれた。38年前のあの日から、私はマーシャルアーツに夢中になったままなんだよ(笑)。実際にムエタイの練習を始めたのは13歳の時。当時、一番勢いのあったシットヨートン・ジムでトレーニングに入門した」

──その時のお母さまの反応はいかがでしたか。日本人からするとムエタイはリングで戦う賭け事でもあり、伝統武道とは思えないところがあったかと思います。

「その通りだ(笑)。母は物凄く反対したよ。彼女は本当に古式ゆかしい日本人女性だからね。母は静岡県清水の由緒正しい武士の家系、豊かな家庭で生まれ育った。う~ん、話は長くなるけど構わないかい?」

──もちろんです。人間チャトリの根幹に迫りたくて、インタビューを申し込んだので。

「清水でお嬢さんとして育った母は、東京の女子大に進学した時に留学していた父に会ったんだ。父のルームメイトが母のお兄さんでで。母はね、日本語では何ていうのか……ベリー・マジメな人間だったけど、父と恋に落ちた母のことを祖父母は許さなかった。その結果、彼女は家を飛び出てバンコクへ向かい、父と結婚したんだ」

──もう50年は昔の話ですよね。お母さまのご両親が、2人の恋愛を許せないという話は想像できます。

「そうだね。子供の頃から何度か東京へ行く機会があったけど、正直なところ僕がタイ人ということで、日本人から差別的な部分を感じることはあったよ」

──申し訳ないです。

「いや、構わないんだ。私の血の半分は日本人だし、日本を愛している。日本は今でこそオープンになったけど、30年前……いや20年前でももっと閉鎖的だったから」

──……。そう言ってもらえて何よりです。欧米よりアジアを下に見る。それは日本に確かにあった意識です。それにしても、お母さまも情熱的な方だったのですね。お父さまも東京の大学に留学するくらいですから、裕福な家庭だったのはないですか。

「私が記憶している幼少期、うちの家族は本当に中産階級だったよ。父は建築技師で、私が5歳を過ぎた辺りから成功を収めていった。母は幼かった私にいつも日本語で『あなたは世界を助けるの』、『あなたは人々を救うようになるのよ』と語りかけてくれた。そして、13歳でムエタイを始めた時、ムエタイは本当に貧しい人間に残された、最後の選択だと私は知ったんだ」

──チャトリさんのようなミドル・クラスの練習生はいなかったですか。

「私が一番裕福な家庭の人間だったよ。他はイサーン県(タイ東北部)などの非常に貧しい地域から、稲作の小作農の7人や8人、9人兄弟のなかで、暮らしていけない男の子が5歳やそこいらでジムに引き取られるような形で、ムエタイを始めていたんだ」

──こういう表現は良くないかもしれないですが、ムエタイをやるしかなかった人達と、そうでないのにムエタイに夢中になったチャトリさんの想いはやはり特別だったのですね。

「だから私は今でも世界王者クラスとスパーリングをすることができるんだ(笑)。実際、リングで戦ったのは30戦ほどだけど、レベル的にはハイエストだったと断言できるよ」

──すみません。趣味的に続けて来たのかと思っていました。

「私のクルー(師)だったヨートン・セラナンが亡くなる時に数多く育ったシットヨートンの名を持つナックモエのなかで、私と彼の息子と他の2人、4人だけにジムの名前を譲る、次の世代を頼むと言ってくれたんだ。そして『シットヨートンのムエタイの指導を守り抜いてくれ』と言われた」

──そのようなことが……。

「ムエタイには黒帯はないけど、プロになった19歳の時にシットヨートンの名前を貰った。ヨーチャトリ・シットヨートンの名前で私はリングに上がっていたんだ。最後の試合は10年前だよ。十分に財をなして、アジアに戻ってきてから引退試合を戦った」

──その財をなす前、米国で成功を収める前に苦難の時があったことはMMAファンの間では、かなり知れ渡っている話です。

「1997年のタイバーツ暴落を機に始まったアジア通貨危機によって、父の仕事は一挙に傾き、何から何まで……家まで失った。そして父は家族を見捨てていなくなった。その時だよ、母は『この機会にまず、あなたは家族を助けることに全力を尽くして。そうすれば、あなたは人々を救える人間になれる』と言ったんだ。私は『お母さん、お金もないのに何ができる?』って言い返したよ。母は『チャトリ、あなたがアメリカで学べるよう問い合わせてみる』と言葉を続けた」

──失礼ですが、貧乏のどん底だったわけですよね。

「そうだよ。授業料はおろか、食べ物を買うお金にも事欠いていた。でも、彼女はこう言うんだ。『チャトリ、アメリカへ行って自分の道を見つけなさい』と」

──チャトリさんのことを誰よりも信じているからこその言葉だったのではないでしょうか。

「母のあの言葉がないと、私は今ここに座っていない。まだ父がいた時代に私はマサチューセッツ州のタフツ大学に留学し経営修士課程を取っていた。それもあって、幸運にもハーバート・ビジネス・スクールで学べることになった。私は友人から千ドルを借り、スーツケース一つでアメリカに渡ったんだ」

──その状況でよく米国に渡る決意ができましたね。

「最初は凄くビクビクしていたよ。授業料、教則本を買う金もなかった。それでもアメリカという国は凄い。ハーバードで学ぶ人間は銀行から融資を受けることができるんだ。奨学金を得て、ローンを組み、タイ語を教え、ハーバード・マーシャルアーツクラブの代表になりムエタイを指導した。それだけで足りず、チャイニーズフードのデリバリー、経営学修士を取りたい学生の講師、何でもやったよ。全ては生き残るためだった」

──もう言葉がありません。

「2年目に母がボストンにやってきて、学校には黙って小さな寮の一室で一緒に生活をするようなった。母がベッドで寝て、私は床で寝ていた」

──凄まじい生命力ですね。

「なぜ、生き残ることができたのか。それは母が私を信じ、私を愛してくれたからだよ」

──……。

「自分を疑い、将来を案じていた私を母が勇気づけてくれた。と同時にムエタイが私を支えてくれた。私にはファイターの心があった。武士道スピリットを持っていた。だからサンドウィッチを1つ買って、それを3つに切り分けて1日の食事にするという生活に耐えることができたんだ。

あの頃の私は、ローンを返すことができるのかという状況に怯えていた。ハーバード・ビジネス・スクールで周囲の優秀な学生を見ると、自分が彼らの域に達しているとは到底思えなかった。皆、私より優秀でリッチだった。本当に怖かったんだ。精神的には人生で最悪の状況だったといっても間違いないよ」

──どのようにして、その状況を脱することができたのでしょうか。

「それが私の運命だと悟ったからだよ。もうアジアに戻ることはないという覚悟で、あの日々をサバイブした。同時にそれまでの自分の人生を振り返ると、ムエタイでの経験があり、母の言葉があった。当時の厳しい環境が今の私を創ってくれた。そして27歳の時に私は最初の会社を起ち上げたんだ」

──スクール時代に、ですか。

「そうだよ(笑)。母は安定した仕事を選んでほしいと言ったよ。ハーバード・ビジネス・スクール出身者のサラリーは十分に高い。そして、私の下にも5つの会社から、年収20万ドルで誘いがあった。当時の私としては大金だったよ」

──今でも大半の人にとって大金ですが、会社員になることを選ばす会社を興したのですね。

「大きな会社の歯車になるつもりはなかったからね。スクールの友人でコンピューターサイエンスのエンジニアがいて、彼とインターネットソフトの会社を創ったんだ」

──今から20年前、まさに時代の走りだったわけですね。

「学校内で創った会社だったけど、卒業後にシリコンバレーに移った」

──北米大陸を横断して、コンピューターの本場に会社を構えたと

「いくつかのファンドから運用資金を調達してね。最初は何もなかった。サンフランシスコの小さなアパートにオフィスを開き、終業後に母と一緒にフロアに寝袋を敷いて寝ていた」

──お母さままでッ!!

「裕福な家庭で育った母だけど、何も気にしていなかった。従業員に給料を支払うことを第一に考え寝袋で眠る。彼女のおかげで、今の価値観を持つことができたんだ」

──チャトリさんがそう断言できるのも理解できます。ソフト会社の経営は順調だったのですか。

「シスコに移った当初は、従業員の数は7人だけだったけど150人に増え、ここで会社を売却し、4千万ドルをベンチャーキャピタルに投資することにした」
ベンチャーキャピタル。ベンチャー企業の株式などを引き受けることによって投資をし、その企業が株式公開するなどしたのちに、株式を売却。キャピタルゲイン(投資額と売却額との差額)を獲得する組織。

──そこでハイリターンを狙う、積極的な投資を行ったのですね。

「私は大人になるまでマーシャルアーツを愛すると同時に、創業者になること、そして株式市場への興味を持ち続けていた。会社が成功した時点で、まぁ十分にリッチになっていたけど、貧しかった時代のことを忘れることは決してなかった。何より、あの時代にたった一度だけ、母が流した涙を見たことは……。あの時、私は一度心が折れたんだ。母のような強い人が夜、私が眠っている時に涙を流していたことを知って。母は食べるものさえも子供達に与えることができない状況、これからの将来に関して悲観的になっていた」

──……ハイ。

「あの時に目にした光景は、今もハッキリとこの瞼に焼き付いている。そして、強い意志をもって自分の人生と戦うことを決意した。私が家族を守る。母に経済的な心配を絶対にさせないと心に誓ったんだ」

──だからこそチャトリさんは会社を創業し成功しても、さらに前に進んだのですね。

「でも、そこに落とし穴があったよ。シリコンバレーで成功を収めた後、もっと稼いでやろうと2001年にウォールストリートに進出した。そこで自らの投資ファンドを設立して5億ドルを手にした」

──!!

「この間、2002年だったと思う。TVで見たヘンゾ・グレイシーに柔術を習いたくなって、彼のスクールに通うようになったんだ。毎日のようにBJJとムエタイのトレーニングを続けていた(笑)」

──これ以上望むべきモノのない人生だと思うのですが、それでも落とし穴があったのですか。

「ハッピーだったよ。何軒もの家や高級車を手にした。ウォールストリートの日々は楽しかった。だけど2007年かな、37歳の時に自分の内面はまるで満たされていないことに気付いた。私の心は、もっと別の何かを欲していた。お金がいくらあっても、心が満たされていないと何も意味がないことが分かったんだ。

あの時、30年も前に母が私に言った『チャトリ、あなたは世界を救うのよ』という言葉が蘇り、日々大きくなり続けた。結果、リタイアを決意し、世界を見て回る旅に出たんだ」

──それはある意味、自分探しの旅でもあったのですね。

「その通りだね。旅の途中にシンガポールに立ち寄り、アジアに戻ることを決めた」

──タイではなかった?

「タイに戻りたい気持ちは当然のように持っていたよ。でも、あの厳しい経験が、タイで生活することを踏み留めた。まだ心に傷を抱えていたんだね」

──いずれによせ、悠々自適な生活をシンガポールで送ることができた状況でイヴォルブMMAだけでなく、ONEチャンピオンシップを始めていくことになるわけですが……。

「そうだね。経済的には孫の代まで、何も心配する必要はなくなっていた。彼らは仕事をしなくても、十分に豊かな生活を送ることができる。そんな時、10代で目にしたジムに預けられた少年達のことがフラッシュバックしたんだ」

──シットヨートン・ジムの光景を。

「99パーセントのファイターは現役を引退すると、再び貧困生活に戻ることをね」

──……。

「トゥクトゥクの運転手、ナイトクラブの用心棒、そしてムエタイのトレーナーになっても、月に1万バーツ(約3万円)しか稼げないような生活に戻るんだ」

──イヴォルブを創設する動機が、ジムでの原体験が存在していたと。

「19歳の時、人生の全ての夢を書き留めたことがあった。3番目か4番目の夢がジムを開いて現役のファイターだけでなく、引退後の彼らの面倒をしっかりと見るというモノだった。若い頃ジム仲間と一緒に2009年、イヴォルブMMAを始めたんだ。

──それもまた、今日はどれだけ出てくるのかと思われる素晴らしい話の一つですね。

「ONEチャンピオンシップもイヴォルブMMAも、私にとって運命だ。私はこれ以上、働く必要はなかった。でも心に空いていた穴を埋めるのは、やはりマーシャルアーツだったんだよ」

──良い意味での原体験ですね。

「イヴォルブのトレーナーたちは、世界中のジムでも最も高給取りのはずだ。ムエタイ、柔術、ボクシング、全てのインストラクターは月給で8千ドルから1万5千ドルを手にしている」

──それは凄いことですね。

「イヴォルブは世界チャンピオンが揃っている。ボスとして、彼らの生活を守ることが私の使命だ。私にとってマーシャルアーツはビジネスやホビーではなく自分の心、私の魂、人生の全てだから。ONEの従業員も同じだ。最高の給与を支払っている。その結果、皆が情熱を持って仕事に向き合うことができる」

──2011年9月、ONEは初めての大会を開きました。あの頃、チャトリさんはCEOとしてビクター・クイ氏を前面に押し出し、イヴォルブMMAのオーナーとしてONEに投資しているという立場を採っていたように記憶しています。

「チェアマンであることは公言していたけど、実際にビクターがCEOだったよ。彼はお飾りではなかった。私はオーナーであり、実務面のトップのビクターにアドバイスをすることが、ONEでの役割だった」

──それがいつしか、CEOとなり自ら率先してONEをリードするようになりました。

「ONEのビジネスは複雑だ。開催国だけでも10カ国に及び、配信や放送は130カ国を超える。その他にもありとあらゆる重圧がCEOの肩に圧しかかって来る。ビクターは素晴らしいビジネスマンだけど、私がONEを牽引することが必要だと思ったんだ。同時にイヴォルブMMAの社長の座を他者に譲り、ONEのビジネスに集中することにした」

──チャトリさんはもうイヴォルブの代表ではないのですね!!

「毎日練習して、オーナーではあるけど、もうイヴォルブのビジネスに頭を使うことは週に30分ぐらいだよ(笑)。不動産や投資というビジネスはも続けているけど、全ての力をONEに注いでいる」

──タイと米国での経験を全てONEに生かしているというコトですね。

「神が……この世界が私に全ての経験を与えてくれた。貧困を経験し、財産を成した。根底にはマーシャルアーツへの愛が存在した。母が世界を救えと言ってくれて、幸運にも私にはその力があった。この経験をマーシャルアーツのために使いたい。だから……決して軽々しく運命という言葉を使っているわけではないんだ」

──ハイ。それは話を伺っていると十分に理解できました。

「アジアで最も大切な文化がマーシャルアーツだ。それなのにマーシャルアーツはいつまでも、残忍な喧嘩のようなモノだと勘違いされている。本当のマーシャルアーツはそうではないのに」

──勿論です。

「マーシャルアーツには人生に欠かせない大切なモノ……清廉さ、謙虚さ、名誉、敬意、勇気、規律、思い遣りの全てが含まれている。それを世に示したいんだっ!! 40億の人が生きるアジアの歴史にはバイオレンスなファイトなどではないマーシャルアーツが常に存在した。UFCと本当のマーシャルアーツとは価値観が違う」

──そのUFCが初めてシンガポール大会を行った際、イヴォルブMMAはメインスポンサーでした。

「それはONEとイヴォルブMMAは別会社だからだよ。スポンサーになることで、UFCをサポートしているイメージを持ったかもしれないけど、イヴォルブにとって絶大な宣伝効果があった。イヴォルブのジム・ビジネスとして必要だったんだ。一方でONEはスポーツメディア・ビジネス、あのスポンサーとまるで関連性はない」

──なるほどッ!! ところでONEの活動を開始した際、MMAのプロモーションとして今のように立ち技も含んだイベントにしなかったのはなぜですか。

「私のビジョンにはムエタイ、キックボクシング、サブミッション・グラップリングも含まれていた。それだけじゃない、今も空手、テコンドーなど全てのアジアのマーシャルアーツの試合を組んでいきたいと思っている。ただし、ONEをアジアに広めるにはMMAを用いることが最適だった」

──まだMMAが知られていない状況でも?

「だからこそ、競合相手がいなかったんだ。そしてONEのブランドが確立したからこそ、ムエタイやキックボクシングを導入することが容易になったんだ」

──UFCを頂点とする北米MMAとは一線を画したスポーツメディア・カンパニーとしてONEをアジア全土に広めていったわけですね。

「北米の市場規模は20兆ドルだ。対してアジアは23兆ドル、北米の人口は3億2千5百万人で、アジアでは44億人が生活している。アメリカの3大スポーツ、NFLの市場価値は75億ドルだ。MLBになると39億ドル、NBAは37億ドルだ。アジアにはこれらに匹敵するメガスポーツ・ビジネスは存在しない。インドのクリケットが5億ドル、日本のプロ野球でも1億から2億ドルでしかない。中国サッカー、スーパーリーグも1億ドル程度だ。何よりクリケットを見るのはインド人だけで、野球も日本、韓国、台湾の人々ぐらいしか興味を持たない。日本の人達がチャイナ・スーパーリーグを視聴しているかい?」

──よほどのマニアでないと結果すらチェックしていないでしょうね。

「23兆ドルの経済圏であるアジアにはFNLやNBA、そしてMLBがない。けれども、マーシャルアーツはアジア全域でみられる文化だ。私のビジョンはONEがUFCより大きくなることではなくて、NFLより大きくなることなんだ」

──!

「その可能性を秘めている。この後の2年でONEのイベント開催数は36大会、52大会を予定している。もちろん、簡単なことではない。でもそこを目指している」

──それはUFCに匹敵するイベント数になりますね。

「UFCが世界でベストだという意見があるけど、そんなことは気にしない。今のUFCはドラッグや暴力、バイオレンスなイメージが付きすぎている。そういう選手が試合に出ることを、いつまでも許容している。 ONEでは問題を起こした人間は絶対に契約を解除する。実は幾人かのUFCトップファイターが、ONEにコンタクトをしてきているんだ。時がくれば、公表するよ」

──それは楽しみです。元UFCのビッグネームがONEのロースターに名を連ねるようなことがあれば、より厚味が出てきます。

「ただし、何があっても私はコナー・マクレガーのような人間とは契約はしない。ONEのチャンピオンを見てほしい、人として社会の模範になる選手ばかりだ。それが本当のヒーローなんだ。だから、私はUFCのボスのように選手に対して上から目線で言葉を発さない」

──それだけ選手を尊敬しているということですね。

「フルパワーで顔を殴られ、エルボーで顔をカットされたことがある人間だよ(笑)。選手達の大変さが理解できるから、ファイターが納得いく環境を用意しようと常に思っている。きっとUFCの開催目的はマネーだろう。多くの格闘技のプロモーターは間違った道を歩んでいる。金儲けのために選手を戦わせ、バイオレンスなイメージを世間に受え付けている」

──チャトリさんの言っていることは恐らくは正しいかと思います。ただし、正しいからこそ往く道は困難だという見方もできます。

「私はマーシャルアーツの本当の価値観を知って欲しいからONEを開いている。そしてマーシャルアーツの本質が理解された時、44億人のマーケットが開けてくるんだ」

──そのなかで、ついにONE東京大会が来年の3月31日に両国国技館で開催されることが決まりました。UFCが根付かなかった日本の市場は、どれほどONEに重要なのでしょうか。

「日本はONEの将来にとって、とても大切なマーケットだよ。これからの5年、10年というスパンで考えるとトップ3マーケットだ」

──おお、そこまでなのですねっ!! ところで他の2つは?

「中国、そして……これはまだ言えない(笑)。もう一つの国のことは、いずれ明らかになるから楽しみにして欲しい」

──了解しました(笑)。ただ日本のMMA界を巡る場勢は決して楽観視できるモノではありません。

「楽観はしていない。私の人生に簡単なことなど何もなかったからね。私がやろうとしてきたことは、いつだって誰もが『無理だ』と切り捨てて来た。日本大会についても同じだ。でも現状が厳しいから、トライしないという生き方をしていたら、今の私はない。マーシャルアーツの価値観の一つに勇気がある。だから、やるんだよ──日本にマーシャルアーツを再興させる。そして、日本人を再び強くする」

──そう言って頂けるだけで、嬉しいです。アベマティーヴィーとの提携により、4月から次々と日本のトップ選手がONEと契約を果たしていますが、負けが続いています。

「その通りだ。この半年間、ほとんどの日本人ファイターが勝てていない。かつて日本のMMAはアジアでベストだった。しかし、今は違う。一歩後ろにいる。そんな日本を元の位置に戻す。イヴォルブを日本でオープンさせるのも、一つの手だろう。日本の将来を信じているけど、そのためにイメージを変える必要がある。8月23日に行う東京での記者会見が、その一歩になる。シンガポールや他の国で我々がやってきたことを日本でも引き続き行う」

──ところで日本大会の開催が明らかになり、ここマニラで会った多くのファイターが、『日本大会に出場したい』と言ってくれています。既にチャトリさんの頭の中で、何かプランは出来つつありますか。

「あくまでも私の考えであり、これからチームでマッチメイクを考えていく必要はあるけど……ヘンゾと日本のレジェンドとの試合を組みたいとは思っている。アンディ・サワー、ジョルジオ・ペトロシアン、ヨーセングライ、シンヤ・アオキ、ビビアーノ・フェルナンデス、ビッグショーにしたいね。当然、日本のトップファイターにも出場してもらうし、トップに見合ったファイトマネーを支払う。コナー・マクレガーやジョン・ジョーンズには届かないかもしれないが、ONEのチャンピオンたちは、他のUFCファイターとは変わりないファイトマネーを得ている」

──内藤のび太選手も、日本で戦っている時のウン倍ではなく、勝てばウン十倍になるという話も伝わってきますし、それは日本の選手にとって励みになるはずです。

「ナイトーのファイトマネーはチャンピオンの中では、高い方ではない。もっと存在感を出してくれれば、もっと支払う。日本の選手たちの人生を変えたい。ONEで豊かになって欲しい。それも私が日本にONEを定着させたい理由の一つの理由だからね。我々の一番のスター選手は1試合で50万ドルから、100万ドルを稼ぐ。ナイトーもそこを目指してほしい」

──もう既に始まっているのでしょうが、8月23日のプレスカンファレンスから日本のMMA界がONEとともにどのように変化していくのか楽しみにしています。マニラ大会当日で忙しいなか、取材を受けていただきありがとうございました。

「新しい時代が始まる。新しい時代が日本に辿り着く、新しい時代がアジアのマーシャルアーツに生まれるんだ。皆がかつてない偉大な歴史の中で生きてくために、全てのマーシャルアーチストの手にマーシャルアーツが戻るよう全力で戦う。私はマーシャルアーチストの仲間として全てのマーシャルアーチスト、マーシャルアーツ・ファンと約束する。マーシャルアーツを世界で一番のスポーツに昇華させることを」

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