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【Lemino Shooto02】砂辺光久&宮城友一が語る沖縄MMA史「二人で一緒に勝ちたいと思っていた」

【写真】沖縄MMAの歴史が詰まった両者のインタビュー。その想いが新しい修斗沖縄大会、Lemino修斗で結実する(C)MITSUHISA SUNABE

19日(日)に沖縄市のミュージックタウン音市場で開催されるLemino Shooto02にて、宮城友一シモン・スズキと、砂辺光久が福島祐貴と対戦する。
Text by Shojiro Kameike

地元沖縄で砂辺が修斗初参戦、盟友である宮城友一と2022年7月のRIZIN沖縄大会以来の揃い踏みとなる。沖縄MMAのスタートともなった武限時代から練習を共にしていた両者の視点から語る沖縄MMAの歴史、松根良太のTheパラエストラ沖縄(現THE BLACKBELT JAPAN)設立、そして修斗沖縄大会とは――


道場破り? 来ましたよ。KOして帰してあげていました(砂辺)

――今回はお二人の歴史とともに沖縄MMAの歴史についてもお聞きしたいと思います。まずお二人の出会いは、宮城選手がハイブリッド・レスリング武限に入門した時ですよね。

宮城 はい。僕はパンクラスを見て、総合格闘技に興味を持ちました。でも当時、沖縄で総合の練習ができることを知らなくて。そんな時に武限の選手がアマチュアパンクラスで優勝したという記事を新聞で見て、沖縄で練習できる場所があることを知ったんです。

――当時の武限は、どれくらいの規模のジムだったのでしょうか。

砂辺 今のジムとは比べものにならないで。スペースは3分の1ぐらいで、床はマットではなく畳で——いわゆる「道場」でしたね。その前は中学校の武道場を借りて、週何回みたいな形で練習していたんですよ。そこから僕の兄が道場を構えて、365日開けて練習していました。

――壁は木の板で?

砂辺 いや、壁はコンクリートでした。

宮城 壁の一面ぐらいは畳を貼り付けている、というような形でしたね。

砂辺 当時は壁際の練習とかなくて。

――当時の総合格闘技はリングが主流で、今のMMAのように壁レスの練習を行うことも少なかったかと思います。それだけ大きく変化してきました。まずお互いに初めて会った頃の印象を教えてください。

砂辺 友一は琉球大学の学生で、極真空手をやっていたんですよ。打撃が上手だなと思ったのと、骨が固い。

――骨が固い、とは?

砂辺 たとえばお互いスネで蹴り合った時に、僕が負けるみたいな(笑)。

宮城 骨の固さは、もともとよく言われるんです。骨が固い、当たると痛いとか。だから生まれもったものかのかもしれませんね。

僕が光久先輩と会った時は――もともと総合格闘技は体格の大きな人がやるものだと思っていたんです。最初に視た頃のパンクラスは無差別で行われていて、自分は小さいから総合はできないと諦めていた部分もあって。でも先輩と会ってみると僕より細いのに、すごく強かった。そのおかげで、僕のように小さい人間も総合をやっていいんだ、この道場で練習すれば強くなれるという気持ちを持ちましたね。

――宮城選手にとって砂辺選手は厳しい先輩でしたか。

宮城 光久先輩だけでなく、みんな厳しかったです。練習もキツくて。「ウチは少数精鋭だ!!」と言っているなか、僕はボコボコにされていたし、あとから来る人をボコボコにしたりしていました(苦笑)。

砂辺 当時はあくまで「道場」で、ビジネスとしては成り立っていないものでした。今は僕たちもお互いにジムを持っていて、当時と同じことをやったら人が残らないことも分かっていますから。

宮城 同じことはできないですね、アハハハ。

砂辺 殺伐としているというか、お互い「やり合う」みたいな気持ちはありましたよ。もちろん練習相手を怪我させるわけじゃないけど。

宮城 武限の頃は、ずっとそんな感じでしたね。

――ちなみに当時、武限に道場破りのような人は来ていたのですか。

砂辺 来ましたよ。外国の方が来て、僕がヒールフックでバキバキいわせたりとか。

宮城 僕の場合は当時よく分からない状況のまま、道場に来た方とスパーリングさせられ、ボディでKOしたりしていました(苦笑)。

砂辺 友一がやる時は、僕たちが「もっと行け、もっと行け」って煽るんですよ。友一は優しいから、思いっきり行けなくて。

宮城 ……(苦笑)。

砂辺 でもそれじゃ僕たちがナメられてしまうから、「もっと行け」と煽って相手をKOして帰してあげていました。というのも僕の場合は兄が道場の代表、僕はその次の立場で。あまりやりたくはないけど、やっぱりナメられてはいけないので。

――まさに黎明期というエピソードです。その武限がなくなったあとも、お二人は活動を共にしていたのですね。

砂辺 はい。武道場や公共施設を借りて練習していました。

宮城 僕はプロのファイターになりたいという気持ちがあったけど、どうしたらプロになれるのかと考えていて。でも県外に出る勇気もなく「どうしたらいいんだろう」と、すごく感じていたかもしれないです。

砂辺 違うよ。武限の頃にはプロになっているよ。

宮城 え、そうでしたっけ。いや、なっていないです。とにかくもう昔すぎて(笑)。

――もう20年ほど前の話ですからね。今回は参考として、お二人が揃い踏みした時のデータを用意しました。初めで二人が同じ大会で試合をしているのは2007年です。この時はまだ武限ですか。

砂辺光久×宮城友一 揃い踏みの歴史
■2003/9/3 パンクラス熊本大会
砂辺光久 Def. 築城実
宮城友一 Def. 池田大志(パンクラスゲート)

■2007/4/8 パンクラス沖縄大会
砂辺 Def. 村田卓実
浅野倫久 Def. 宮城

■2015/3/15 パンクラス有明大会
砂辺 Def. 小塚誠司
田中智也 Def. 宮城

■2015/7/5 パンクラス有明大会
砂辺 Def. 伊藤崇文
中村龍之 Def. 宮城

■2021/11/19 RIZIN沖縄大会
前田吉朗 Def. 砂辺
宮城 Def. 安谷屋智弘

■2022/7/2 RIZIN沖縄大会
中務修良 Def. 砂辺
伊藤裕樹 Def. 宮城

砂辺 武限は2005年になくなっていますね。2007年、パンクラス沖縄大会の時には僕も道場を持っていました。

――その頃には練習環境も整ってきていたのでしょうか。

砂辺 練習環境はあるけど、整ってはいなかったです。練習相手も友一しかいなくて。だから練習場所があるだけという感じで、基本的に二人で練習していました。友一の試合がある時は、僕が友一の相手の真似をする。僕が試合の時は、友一がそれをする。同じ大会に出る時は、互いに試合をして、セコンドもして。

宮城 当時は自分たちが恵まれているとか、恵まれていないとかっていうことも考えていなかったです。すごく必死で、それ以上のことも望んでいなかったし。

砂辺 それが当たり前だと思っていたもんね。

宮城 そうです、そうです。

砂辺 武限の頃は武限でやっていることが当たり前だと思っていて。僕が常設道場を持ってからも、それが当たり前だと思っていましたよね。他所を知らないから。当時は沖縄に寝技の先生がいない。ボクシングはボクシングジムで練習して――という感じで、MMAの教科書はなかったです。本当に二人で切磋琢磨していました。

松根さんが来てから沖縄の練習も変わりました。強い選手が育ってきたし、選手の成長速度も違う(宮城)

――宮城選手がキックボクシングに転向して以降、宮城選手がMMAに復帰するまで二人の関係は続いているのですか。それとも途絶えたのでしょうか。

砂辺 途絶えます。僕、友一とキックの練習をしたことは一度もないんですよ。選手としては絡みがなく、友一がキックの試合に出る時、僕が応援に行くというぐらいで。

宮城 僕も当時は寝技の練習もしていなくて、本当にキックボクシングだけでした。

砂辺 その時は友一がMMAに戻ってくるとは思っていなかったですね。

宮城 僕も……いや、未練はありました。ずっとMMAが好きだったので、やりたい気持ちはありましたね。ただキックボクシング時代は、もちろんキックに対して必死でしたから。

――その後、宮城選手がキックボクシングでベルトを巻き、もう一度MMAに戻ろうと決めた時はまず砂辺選手に伝えたのですか。

宮城 先輩に話をした……はずです(笑)。

砂辺 アハハハ。僕は友一から話を聞いた時、また僕とマンツーマンで続けるのではなく、当時出来たばかりのラエストラ沖縄(現THE BLACKBELT JAPAN沖縄)に行くよう勧めました。パラエストラ沖縄は出稽古がOKで、いろんなジムの選手が集まっていたんですよね。だからまずは、そのグラップリングの時間からやってみたら――と。その流れで僕が友一と松根さんを繋げたんです。

――ここも一つの大きな転機ですね。松根良太さんが沖縄でジムを立ち上げたことについて、どのような印象を持っていましたか。

宮城 松根さんが修斗のチャンピオンになるのをテレビで観ていて、憧れのような気持ちを持っていました。その松根さんが沖縄でジムをやることを聞いても、そこで自分が練習するという考えには繋がらなくて。「わぁ、凄い人が来るんだ」みたいな感じでしたよね(笑)。

砂辺 僕は、松根さんとはリバーサルの繋がりがあって、練習させてもらうこともあったんです。その時、松根さんが「沖縄でジムをやろうと思うんです」という話をされていて「これは凄いことになるぞ」と思いました。松根さんの強さは身をもって知っていましたからね。柔術黒帯、修斗の元チャンピオンが沖縄に来る。沖縄でも強くなれる環境が一つ揃う――自分の中では「助かった」という気持ちはありました。

――松根さんが沖縄でジムを立ち上げたことで、二人の関係も再び繋がりました。その時はお互い、武限の頃から印象は変わっていましたか。

砂辺 パラエストラ沖縄で久しぶりに練習した時——昔から、下からの十字や三角が得意で。まだその強さはあるなぁ、という懐かしい想いはありました。変な言い方ですけど、友一はそれしかできなかったので(笑)。

宮城 アハハハ、その通りなんですよ。少しのことしかできないので、逆にあまり変わらなかったというか(笑)。僕は先輩と組んで、「やっぱりずっと敵わないなぁ」という印象でした。もともと一度MMAから離れる前も「全然敵わない」と思っていたし、今も変わっていないです。

――その後、砂辺選手はパンクラスで戦い続けますが、宮城選手がグラジエイターに戦いの場を移します。再び両者が揃うのはRIZIN沖縄大会でした。RIZINが沖縄で開催されるというのは、それだけ沖縄MMAも大きく変わってきたように思います。

砂辺 やっぱり松根さんの功績がすごく大きいです。たとえば、アマチュア修斗の大会も沖縄は一つの地方大会でしかなかったものが、現在は沖縄選手権として開催されている。沖縄から全日本選手権に出場した選手が、当たり前のように優勝する。それでプロになり、平良達郎みたいにUFCへ行く選手も出てくるわけじゃないですか。

沖縄のMMAを創ったのは、僕の兄も含めて自分たちだと思っています。でも沖縄のMMAを発展させたのは松根さんの功績ですよね。それは本当に。

宮城 松根さんが来てから沖縄の練習も変わりました。来る前と来た後でバンッと全然違います。僕たちは出稽古で練習させてもらう形ではあるけども、それでもどんどん変わっています。強い選手が育ってきたし、選手の成長速度も違う。松根さんがいなかったら、そうはなってなかったというのは間違いないです。

――さらに松根さんが沖縄でプロ修斗興行を開催する。宮城選手は以前から出場していましたが、そこに砂辺選手が出場することになると思っていましたか。

宮城 いや、思っていなかったです。

砂辺 自分の中でもゼロでしたね。他所の庭だと思っていたので。僕はパンクラスの人間で――別に敵対視しているわけじゃないですよ。でも修斗沖縄大会は友一やウチの当真が輝くステージだと思っていました。

――そんななか今回、砂辺選手が修斗沖縄大会に出ることになった経緯を教えてもらえますか。

砂辺 それはすごく単純で、明確な理由があって。僕の親父が今年6月に亡くなったんですけど、3月中旬ごろに「あと1~2カ月だ」と余命宣告を受けたんですよ。僕の親父は格闘技が大好きで、プロレスも含めて僕が沖縄で試合をする時は毎回来てくれていました。でも僕が最後に沖縄で試合をしたのはRIZIN沖縄大会で、「親父は大きな会場で僕が負けた試合を観て残念だっただろうな」という気持ちが、僕の中にはずっとあって。

そのタイミングで4月に修斗沖縄大会がある。親父に「俺の試合を観たい」と訊いたら「観たい?」と言ってくれたので、僕はその足でTHE BLACKBELT JAPANに行って「親父に試合を見せたいんです」と直談判したんです。松根さんも「残り2週間ですけど、頑張って相手を探します」と動いてくれて。パンクラス側には僕から話をして、許可を得ました。でも僕の家族が親父の体への負担を考えて、親父が会場へ観に行くことを反対したんですよね。そこで僕は諦め、動いてくれていたパンクラス側、修斗側、松根さんとかいろんなところに謝罪して。

――……。

砂辺 4月の大会には友一が出ていたので、僕もセコンドで行きました。その時「もしかしたら俺はこの場所で戦っていたかもしれない」と思ったんですよね。それまではずっと他所の庭だと思っていたのに。さらに友一が勝って、応援してくれている人たちが喜んでいる顔を見ると、今度は自分がその場所に行きたいと思うようになりました。

松根さんにも友一にも「次の修斗沖縄大会に出ようと思う」という話をして。変な言い方かもしれないけど、別にLemino修斗だから出るとか、そういう話ではないんですよ。

いちMMAファイターではなく、パンクラシストとして毛色の違う試合をしたい(砂辺)
自信のある動きを、ちゃんと発揮してくれる自分自身に期待しています(宮城)

――そうだったのですね。正直なところ、今回から修斗沖縄大会がLemino修斗に変わるだけに、ビッグなカードを求めて砂辺選手にオファーしたのかと思っていました。

砂辺 あぁ、そういうことではないです。僕から「沖縄で試合をさせてください」とお願いしました。友一の試合で皆さんが喜んでくれているのを見て、自分もこの空気感の中で試合がしたい。僕が試合で勝って、皆さんに笑顔で帰ってもらうというのはRIZINの時にできなかったことですから。僕の選手生命がいつまで続くか分からないけど、それが一つの目標になりました。

宮城 先輩の気持ちを聞いた時は、やっぱり嬉しかったです。同じ日、同じ場所——しかも沖縄で試合ができる。先ほども「二人揃って勝ったことはないんじゃないか」という話をしていて。表を見ると2007年の沖縄大会……、もう20年近く前ですよね。いつか二人で一緒に勝ちたいという目標はずっと持っていたので、先輩がこの大会に出てくれるのは単純に嬉しいですね。

砂辺 僕は意固地というわけじゃないけど、ずっと修斗に出ることはないと思っていました。パンクラスと修斗との対抗戦にも出ていないし。あるとすれば内藤のび太に絡んだ時で。

――あの時はリングサイドで取材していて、記者でありながら「本当に来たぁ!!」と興奮しました。一方で砂辺選手は現在連敗中で、苦しい状況にあると思います。

砂辺 う~ん、何だろうなぁ……。僕って一時期、神懸かっていたんですよ。十何連勝していて。今はそのツケを払わされているんだろうなって思うんです。

――2011年から2016年にかけて15連勝していました。ただ、そのツケとは……。

砂辺 たとえば僕が勝った相手と、試合後に練習する機会があって。練習では僕がチンチンにされたんです。これが試合なら自分が負けていた、僕は「持っていた」んだなって思いました。試合で強いタイプなんだな、と。その罰っていうわけじゃないけど――今の僕は、当時の波をまた引っ張り出したいと足掻いていますね。「俺はまだ強いんだよ」ということを証明したいです。

僕は次の試合、Lemino修斗2で全部持って行くつもりでいますよ。いちMMAファイターではなく、パンクラシストとして毛色の違う試合をしたい。観てくれた方が「あれ? 砂辺の試合だけ何か違ったな」と思ってくれたら、僕はマルだと思っています皆と同じことをやっても――それはデビュー1年目や2年目の選手もできることじゃないですか。同じ競技のなかで、同じようには見られない試合をしなきゃいけない、って。それこそ僕がプロ生活24年やってきた味だと思っています。

――なるほど。現在、修斗を主戦場としている宮城選手としては、やはり目標は修斗のベルトなのでしょうか。

宮城 ずっとベルトを目標にやっていますけど、だんだんと先のことは考えられなくなってきていますね。もちろんベルトのことは意識していないわけじゃない。ただ、今はもうもう1試合1試合がゴールみたいな感覚はあります。

――次は今の修斗フライ級で最も勢いのあるファイター、シモン・スズキ選手と対戦することとなりました。

宮城 ……、……一つ言えることは、自信があります。その自信のある動きを、ちゃんと発揮してくれる自分自身に期待しています。

■視聴方法(予定)
10月19日(日)
午後4時45分~ Lemino

■Lemino Shooto02対戦カード

<バンタム級/5分3R>
野瀬翔平(日本)
シンバートル・バットエルデネ(日本)

<ウェルター級/5分3R>
西條英成(日本)
クルボン・バトル(ブラジル)

<フライ級/5分3R>
宮城友一(日本)
シモン・スズキ(日本)

<ストロー級/5分3R>
畠山隆称(日本)
ニシダ☆ショー(日本)

<フェザー級/5分2R>
内藤太尊(日本)
工藤圭一郎(日本)

<ストロー級/5分2R>
梅木勇徳(日本)
平良龍一(日本)

<バンタム級/5分2R>
ショージン・ミキ(日本)
水嶋敬志(日本)

<フライ級/5分2R>
砂辺光久(日本)
福島祐貴(日本)

<2025年度ストロー級新人王T準決勝/5分2R>
黒瀬恭平(日本)
賢人(日本)

<ジュニア修斗62キロ契約/4分1R>
髙松一喜(日本)
通事安朋(日本)

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