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【Bu et Sports de combat】なぜ武術空手に型の稽古は必要なのか─09─站椿05「站椿と型、逆も真理」

【写真】站椿をすることが目的ではなく、站椿をすることになって型を理解です。その考えにいたったのが、型の稽古を始めてから。逆もまた真理 (C)MMAPLANET

型、中国武術の套路をルーツとされるなか沖縄で手の修得に用いられた。それが空手の型だ。ここで取り上げているサンチンもそのルーツは中国武術にあるといわれている。

型を重視する剛毅會の武術空手だが、岩﨑達也宗師は「型と使って戦うということではない」と断言する。自身の状態を知り、相手との関係を知るために欠かせない型稽古を剛毅會ではサンチンから指導する。そんな剛毅會の稽古には站椿が採り入れられている。

なぜ、型稽古が必要なのか。そして型稽古に站椿を採り入れているのか。日本に站椿が持ち込まれるルーツとなった意拳の王向斎は型を廃したが、その逆も真理──剛毅會で站椿を採り入れることで、何が変わるのか──站椿編、最終回をお届けしたい。

<【Bu et Sports de combat】なぜ武術空手に型の稽古は必要なのか─08─站椿04「腕が動く時、空気がある」はコチラから>


王向斎は站椿と型……套路をやってきたわけです

──排気量の大きな外国人選手とMMAを戦う場合、日本人選手は空力を考えた方が良いということになりますか。

「ここが面白いところで殴る、蹴るとなると殺傷能力によって空間や時間は変化します。空間の伸び縮みが質量によって変化するんです。質量が上か下かによって、同じ1メートルでも距離は変わってきます。

接触してから、そして打撃の受け返しは欧米人とやりやろうとしても無理です。排気量とトルク勝負になると勝てない。だけど接触しなければ、相手を居着かせてしまえば活路は見いだせるんです。ここは站椿とは関係ない話ですけどね(笑)」

──いえいえ、全て繋がっていますから。

「そうですね。站椿とはそういった目に見えないモノを理解しようとする心を養い、理解できる稽古です」

──つまり武術空手を収めるために型の稽古と並行して、站椿もした方が良いということでしょうか。

「それは勿論そうです。ただし、目的は何なのか。目的という部分が凄く難しい稽古です。私自身、站椿をやってから型をやっています。ただし、そこで重力や引力を意識して──想念というかイメージしてはいけないんです。例えばボールがあって、それを抱いているというイメージで……とか言うじゃないですか。それを脳ミソでやると、脳ってやつは捏造を始めるんです。

そうではなく、そういう感じがある。ボールを抱いたという感じで収まるモノで。そこがしっかりと収まるのは実は型をやっているからなんです。型をやるまでは中心点というモノが分からなかったんです。独学だから。それが型を始めてから、站椿をやると──站椿をする答……站椿をする目的が見つかったんです」

──う~ん、また難しくなってきました。意拳の王向斎は型を不要として站椿だけをしていたわけですよね。

「そこが私の偏屈なところで、王向斎の逆を行ったんです。今、言われたように王向斎は型を否定して站椿に行きました。私は站椿から先にやっているので、型がなかったんです。つまりは王向斎が型は要らないという風になったのも、型をやっていたからです。

型は身に付けると、残っているんです。内蔵さえしてしまえばサンチンの構えで組手をする必要は一切ありません。インストールさえしてしまえば、戦いでその形(かたち)になる必要はむしろないんです」

──武術を生かすことであって武術をかたどる必要は戦いにおいてないということですね。

「その通りです。だから形意拳の型を究めた人の站椿と、站椿から始めた人の站椿は違うモノです。ただし、それは私のなかでの站椿の捉え方です。剛毅會で站椿を稽古するのは、站椿を稽古することが目的ではありません。意拳を稽古することが、目的ではないんです。型を理解するために站椿の稽古をします」

──站椿をすることで、生徒さんたちの型の理解が進んでいるという感覚はありますか。

「型の稽古をすることは、ただ動作をすることではありません。回数を重ねれば型……順番なんて覚えるモノなんです。動作でなく、一つは自分の内面を変えることですよね。内面が変わることで空気や重力との関係が変わってきます。空気中にスッと入っていける、それは自身の質量が上がったことになります」

──1日に3回サンチンをやらないといけないという義務感でやっても、内面は変わらないということですね。

「良い例えです(笑)。私が武術空手を習っていた先生は『道着を着ていない自分に、着ている自分が追いつくには10年掛る』と言われていました。つまり道着を着ていないで普通にやっていることが、道着を着るとできなくなるということなんです」

──岩﨑さんも実際でそうでしたか。

「最近、ようやく薄れてきました。やはり道着を着ると、構えてしまうってことなんですよね。私も毎日のように稽古を繰り返していますが、稽古をする感覚でなくなってきました。朝起きて、トイレに行って、顔を洗って、歯を磨く。それと同じで、稽古をしないと生活が始まらない。やらない理由がない。そういうモノですよね。義務感でもなんでないですから」

──結論として、なのですが……站椿をすることで、型も相乗効果で身に付くとは断言できるモノですか。

「少なくとも私が要求する……、う~ん、そうですね……型稽古をする目的が存在しています。それは空手という名の下で、サンチン一つするにしても各々の先生で目的が違います。なので他の先生方の考えは分からないのですが、私が要求する空手の稽古にあって站椿をすることが効果的であることは断言できます。

ただし、站椿が目的ではありません。目的はあくまでも空手、型です。それを理解するための站椿の稽古は非常に有効です」

──その結果、站椿を軸に考えると意拳とは逆で目的が果たせる。非常に興味深いです。

「逆も真なり──ですよね、それこそ(笑)。そこが本当に我ながら面白いことだと思います。ただですね、私と似たような経緯で站椿を行っていた方が、念願叶って王向斎直径の意拳を中国で学べたそうなんです。するとまず学んだのが、形意拳の型だったというんです」

──おぉ!!

「やっぱり型は必要じゃんって(笑)。達人が経験論に基づいて出した結論、それが誰にも当てはまるのかということは全てにおきかえて考える必要はありますよね」

──あぁ、本当にその通りですね。文字を書き記すにしても5W1Hを書き続けている人だから、5W1Hを書き記さない文章が書ける。5W1Hを書いてこなかった人がそれをやっても、ただの駄文なのと同じです。

「王向斎の師匠は郭雲深という形意拳の達人です。そこで站椿と型……套路をやってきたわけです」

──いやぁ武術、格闘技は歴史の積み重ねでMMAが今、目の前に存在するというのが本当に楽しいです。

「だから……ナイハンチ、クーサンクー、パッサイに関しても私自身のなかに確証はあります。けれども言葉にしたり、文字にするには論拠が必要になります。木刀を振ってもらうと理解してもらえることを、言葉で示すには──やはり首里手の歴史をたどり、あるいは現地に赴いてその欠片を探し求める必要があると私は思うんです。

サンチンにしても那覇手の東恩納寛量先生は息吹を用いていなかったのが、宮城長順先生が白鶴拳のなかの鳴鶴拳から採り入れた。そういう論拠があります、カァーって鶴が鳴くような音だなと。そういう説明をするために文献を調べたり、現地を訪れる必要があると思うんです。グレイシー柔術だったら『私の父から習った』とか『祖父の教えは』と、そこが血の繋がりでできてしまうのですが。でも空手は、そうはいかないですからねぇ。この連載が題目がナイハンチになった時に、私はどうすれば良いのか……(苦笑)。そういう想いはあります」

──なるほどぉ(笑)。まだサンチンの解明に入ったばかりですので、並行して探求をお願いします。

「いやぁ、でも一度稽古をすることで、色々な気付きがあります。サンチンの型一つをとっても、完成なんてありえないんです。それこそが呼吸を根源とした力の深さなんです。内面の見えないエネルギーによって、外面に変化が表れます。おかしな話ですが、指先が強くなったりするんです。巻き藁を突くのとは違う形でも、そういう外面の変化は起こります」

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