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【Bu et Sports de combat】なぜ武術空手に型の稽古は必要なのか─07─站椿03「中国の意拳は違う」

【写真】站椿をケージの中で使って、強いということでは決してない。そして武術と格闘技では修得するという点において、スパンがまるで違ってくる。それれでいてなお、重なりあっている(C)MMAPLANET

型、中国武術の套路をルーツとされるなか沖縄で手の修得に用いられた。それが空手の型だ。ここで取り上げているサンチンもそのルーツは中国武術にあるといわれている。元々は一対一、あるいは極小人数で稽古が行われていた型は、明治期に入り空手が体育に採用されることで、集団で行う体力を養う運動へと変化した。

型を重視する剛毅會の武術空手だが、岩﨑達也宗師は「型と使って戦うということではない」と断言する。自身の状態を知り、相手との関係を知るために欠かせない型稽古を剛毅會ではサンチンから指導する。そんな剛毅會の稽古には站椿が採り入れられている。

空手と中国武術は切ってもきれない関係ながら、歴史上寸断された過去があった。それでも站椿に何かしら組手を変える要素があると感じ、1990年代中盤より中国から意拳の情報が伝わってくるようになると、岩﨑氏の興味はさらに深まるものとなった。

<【Bu et Sports de combat】なぜ武術空手に型の稽古は必要なのか─06─站椿02「王公斎は型を不要とした」はコチラから>


──極真に全身全霊を掛けていたからこそ、武術空手に辿り着くことができたのだと。

「その通りだと思います。あの時、極真空手と意拳に縁があった。そして站椿の稽古があったことが、私と形意拳に縁があったということですしね」

──釈然としないながらも……。

「腑に落ちなかったんですよね」

──そこを腑に落ちるまで、解明しようという気持ちに時はならなかったのですか。

「それもありますし、中国武術に関しては文化大革命の際に無かったことにされているという歴史的背景も関係しています」

──というのは?

「一度、中国共産党政府としても武術を無いモノとしたのです。その一方で、意拳は中国拳法のなかで歴史が浅い武術という要素が加わります」

──1903年生まれの澤井健一氏が、1930年代に王向斎門下となっていることでも、4000年の歴史のなかで100年ほどということですね。

「王向斎は確か日本の年号いえば、明治19年生まれですからね。何より、中国の名立たる武術家は国民党と共に台湾に渡ったとされますが、王向斎は大陸に残り健康法として意拳を伝えました。文革からしばらく経って共産党が健康法としてのみ武術の普及を認めた。太極拳、気功が広く普及したのはそのためですね。

摩擦歩というゆっくり運足を練る稽古があるのですが、元々両手を挙げて行っていたそうです。ただ、そうすると武術だとバレるということで手を下げて行うようになったみたいですが、我々は澤井先生が戦時中に学んだ摩擦歩を学んだので両手を上げて行うと習いました。

先ほども言ったように文革からしばらく経って、共産党が武術を健康法としてのみ普及を認めたそうですが、そういう背景がありながら、王向斎の門弟の方々は中国本土に残り意拳を普及して行ったそうです。ただ私が空手を始めた80年代、そして90年代の序盤までは中国から意拳について情報が入ってくることはなかったです」

──ハイ。

「だから極真の先生方が澤井先生から習った站椿を、私たちが習う。そして腑に落ちないから真面目にやる気になれなかった。なんせ澤井先生が1988年にお亡くなりになり、中国で意拳を習った方は日本にいなくなってしまったんです。

それが90年代も半ばを過ぎると、中国から情報が入ってくるようになりました。鄧小平が経済開放区を設け、社会主義市場経済を用いたことで武術的な情報も日本に流れてくるようになりました。

その頃になると、日本で意拳を稽古されている先生方も中国に行くハードルが下がり始め、中国の意拳の先生も来日して指導される機会も増えていきました。書物も圧倒的に増えました。私も映像や文献も読むようになり、『アレっ、俺が思っている意拳と中国の意拳は違うんじゃねぇか?』と思った時から、ハマっていったんです。

やたらと腰を落として、カカトを上げて足腰を鍛えるモノではない……ということは、私に限らず多くの人が思ったはずです。単なる肉体の鍛錬方法ではないことには気づきました」

──それが気であったり、内気であると、まるで別物だと捉える人もいたかと思います。

「これは私の話ですが、気というモノには全然興味がなかったです。ただ、前に言ったように何かが違う。それが意識なのか、心なのか。それとも神経なのか……とにかく何かは分からないけど、站椿をしてから組み手をすると何かが変わるという状況が、中国から情報が入ってくるようになってからは、より加速したんです」

──おぉ。実感できるほどだったわけですね。岩﨑さんは粗暴な言葉とは裏腹に、繊細な人じゃないですか。

「粗暴って、私は……繊細ですよ(苦笑)」

──だから、その違いが感じられたのでないでしょうか。

「それは今、武術空手を指導していて……そういう気持ちの持ち主、その気持ちがあると型や武術空手を学ぶ際には凄く役立つと感じています。心や感性、感能力と呼んでいるのですが、感受性の強い人──目に見えないモノを理解する意識や心を養うのには凄く良い練習になると思ったので、站椿を指導するようになったんです」

──一緒に切磋琢磨した人達にその考えを伝えると、どのような反応だったのでしょうか。

「MMAと比べて、空手の世界は夢を追うという空気がありました。MMAは世界中でやっていて、強烈な現実が映像で伝わってくるモノですから。MMAで現役を引退すると、経験値で指導して、技の探求を続ける人は私が知る範囲では空手より少ないと思います。

対して私が空手を始めたころは、選手を引退するから空手を辞めるということがあり得なかった時代です。空手は一生修行するもので、選手生活はその一部だったので」

──MMAは絶対的にというか、何を置いてでも一生追及できる要素の固まりだと思っています。だからMMAと武術が結びつけば、MMAファイターは引退後もMMA家になれるのではないかと。

「それは武術空手家にも言えることです。私は武術空手を一生を通して追及するのであれば、若いころにMMAを経験していることは何よりも財産になると思っています。実は剛毅會で空手を究めたいと言っている25歳ぐらいの子に、前に『空手だ、武術だと偉そうに言っても、お前が一生空手をやるうえでこの経験があることが大きな違いになる。この3分✖2Rを経験しないで、大先生になった人間がたくさんいるんだ』と伝え、アマチュア修斗に申し込んで出場させてもらったこともあるんです。

彼はMMAのチャンピオンになるためでなく、空手の修行としてまだ若いからMMAを経験しています。話を戻すと、スポーツの人って現実が全てです。UFCを見て、ロマンチストになれないですよ。リアリストで強くなければ。

一方で空手は夢見ることができます。将来的にという将来のスパンがMMAと違います。だから、そこに近づくために站椿のような稽古をやろうよと言うことができる──それはありますね」

──岩﨑さんも站椿の意味合いというのは、武術空手を追求するようになってから理解が深まったのですか。

「武術空手に傾倒する以前ですね。ヴァンダレイ・シウバと戦った頃、稽古は站椿、意拳とMMAスパーリングでした。それ以前のフルコン空手の選手を引退する前なども、結果は伴わなかったですが成果を感じることができていました。当時は身体意識ぐらいだったと思うのですが、その身体意識を養っていけば、まだまだ上手になるのではないかという気持ちでいたので、レスリングや寝技でも意識していましたね。出稽古でグラップリングのスパーリングをしていても、站椿や推手のつもりでやっていました」

──それは岩﨑さん、やっぱりロマンチストですね(笑)。

「まぁ、そこにも武術的な力の使い方というものがあるので」

<この項、続く>

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