この星の格闘技を追いかける

【 Column】2009年1月の宇野薫

2021.05.21

【写真】色々なことを知ることができた──KJ・ヌーンのボディ打ち

「僕、続けられるか……自信がなくなりました」

宇野薫にそんな風に話しかけられたのはカルバーシティの前田桂さん宅。その寝室だったか。あの時の表情は忘れることはない。

2009年1月、宇野薫と11日間の出稽古の旅を敢行した。その前年、確かディファ有明で行われたケージフォースの取材を終えて車に向かってパーキングを歩いている時だったと思う。宇野がやっていて『今度、アメリカで取材する時、同行させてもらって向うで練習できないでしょうか』と話しかけられた。

正直、戸惑った。それまでも植松直哉や中山巧、礒野元さんとLA近辺の柔術道場を回ったことがあったが、宇野薫の表情があまりにも切羽詰まっていたからだ。

そして、当時の自分は今よりずっと粗暴で、人の気持ちなど斟酌せず、心根にあることなら何でも口にして、文字に認め、一部の人間を除きちょっとした壁を持っていた。

だから宇野の申し出に戸惑った。ただし、日本のトップファイターが頭を下げ、真っ直ぐな目で申し出てきたのだから断ることはできなかった。

にしても、まだまだ自分も青かった。ただひたすら、可能か限りに自分が取材をしたいジムを車で移動し、そのスケジュールで1日2部練は当然で、ブラジリアン柔術、ボクシング、MMA、なんでもかんでも詰め込み、宇野はひたすら体を動かし続けた。

そこに大会取材も折り込んだものだから、今から振り返るとすさまじい日々を宇野が送っていたことに震えすら感じる。

1月22日にLAに到着し、その足でリムーアへPFCを観戦するために北上した。翌日はすぐに南下しアナハイムでアフリクションの計量に寄り、ハンディントンビーチへ。クレバー・ルシアーノの下で道着柔術とシュートボクセUSAでハファエル・コルデイロと首相撲とスパーリングを行った。

道着の練習は予定していなかったので、自分が持参したマチャド・キモノを宇野は着ていたはずだ。

LAでは前田桂さんの家に寄せてもらった。24日はダウンタウンLAでフィットネスエキスポを覗き、アフリクションへ。翌25日にサンディエゴへ向かい、WECを観戦。宇野はレンタカーの運転も進んでしてくれた。

26日、本格的にジム巡り──彼が心身ともに削られる旅が始まった。シティボクシングでKJ・ヌーンとシュートボックスのスパーリング──宇野は組みつくこともできず、ボディで倒された。ガードの上からとはいえ顔面にも容赦なくパンチを被弾した。

シティボクシングを後にし、40分後には柔術ユニバーシティでサウロ・ヒベイロのパーソナルを受ける。宇野逃げが、技術的には穴がなり彼の感覚で可能になっていたことを知った。その後、道着を着てクラスに合流──ホイラー・グレイシーとのスパーリングが実現した。

宇野の顔にも満面の笑みが見られた極上の時間を終え、カルバーシティに戻った。その日の深夜だったと思う、冒頭の宇野の言葉を聞いたのは。

それだけKJとのスパーリングが、トラウマになっていた。宇野が出稽古の旅を欲したのはJZ・カバウカンチの高い打撃力からのテイクダウン&寝技を体感し、MMAが急速に進歩していることを感じとったからだった。

加えてDREAMライト級GPで青木真也に敗れた。戦極では北岡悟が象徴的な活躍をしている。新しい世代の台頭に、焦りもあった。それでもライト級のパイオニアは、自負もあったに違いない。修斗を制し、UFCの世界戦に挑んだ。自分の力に自信がなければ、出稽古なんてできない。

多くを語らない宇野だが、きっとその自信が木っ端みじんに吹き飛んだのがKJとのスパーだったのだろう。

自分が彼にどんな風に答えたのか、本当に覚えていない。ただ、優しい言葉を口にしたとは思えない。それでも彼は黙々と出稽古の旅を続けた。

27日、ガーデングローブでナム・ファンと練習、マチャド柔術の黒帯パウロ・ギベラルなど日本では無名の猛者の組み技力の強さを体感した。ここからランチョクカモンガへ移動し、ミレニアMMAでハビエル・バスケスやジョージ―・カラキャニャンとロールした。

KJとのシュートボックスのようにエゲツナイ攻撃はされないが、実際のところ我々がまだ気づいていない時代から米国のグラップリングはずっと日本の先を行っており、宇野は攻められ続けながらも、サウロに習ったエスケープ方法を試す姿が見られた。

出稽古先のジムは誰もが宇野にフレンドリーで、リスペクトをもって接してくれた。練習後は多くの会員やジム関係者が、彼と一緒に写真に収まろうとした。宇野も笑顔だった。

今からすれば、何て酷だったのかと思う。尊敬され、友好的。でもスパーでは歯が立たない。彼はどんな気持ちで、車の助手席に座っていたんだろうか。宇野の言葉数が減っても、自分は『疲れているな』というぐらいの感覚だった。

28日、エルセグンドでウラジミール・マティシェンコにレスリングと打撃が融合したテクニックを教わり、アントニー・ホーイドンクにダッチ・キックボクシングの気構えも指導してもらった。

その2時間後にワイルドカードで、フレディ・ローチとマイケル・モーラーからボクシングのプレイベート・レッスンを受ける。フレディは凄く優しかったが、モーラーはガチで鬼軍曹のような指導方法だった。

29日、空路LAへ。この日は洗濯やショッピング、体を休めた。30日午前、エクストリーム・クートゥアーで予定していた練習時間に変更があったようで、プロ練習はなくマイク・パイルにマンツーマンでギロチンの入り方などレッスンを受けた。

午後4時からプロ練に合流、ロブ・マックロー、マック・ダンジグ、グレイ・メイナード、同じく出稽古に来ていた水垣偉弥とMMAトレーニング──まだ宇野が経験していないドリル、壁レスのシチュエーションスパー、パウンドのバッグと今や常識となった練習を経験、これ以上ないほど追い込んだ。

にもかかわらず、自分はコブラカイで取材があるということで、疲弊しまくっている宇野を連れて──今度は最先端のノーギグラップリングのスパーに向かった。

この時、彼は心の中で「道に迷って、着くな」と思っていたことを後日、話してくれた……。

31日、UFCを観戦。2月1日に帰国の途に就いた。

本当に宇野には申し訳ないと思っている。当時、北米がどんなものが知った気になり、ただそれを体感してほしいと彼の心身のダメージを考えず、ムチャな行程での練習にたった一人放り込んでしまった。

どの練習でもCAOL UNOはギラギラとした向上心の塊のような20代のファイターの格好の標的になっていた。

体のケアもできないし、技術練習の反復相手もいない。そんな時間を彼に過ごさせたことは、帰国して幾人かの選手のと会話のなかで気付かされた。

以降、自分が選手と行った出稽古の旅は、基本は複数で行い、可能な限り休息を設ける。時には旧知の選手にガードマンの役割を頼み、防波堤になってもらうようにもなった。

それが宇野薫と1600キロをドライブした日々で学んだことだ。体はともかく、心はスーパーマンじゃない。心が強いから、コレができているのではない。

強い心を持たないと、続けられない。自己弁明になるが、4年後に再び宇野と出稽古の旅を同じくサンディエゴ、そしてシカゴやインディアナで行った時は、この反省が生きていたと思う。

それにしても、良く宇野薫は自分なんかと長時間のドライブをして、モーテルやホテルでも部屋をシェアするという日々を行えたと感心してしまう。今思えば、それこそが彼が如何に格闘技が好きなのかという表れなのだろう。

最初の出稽古の旅から帰国した宇野とは、練習の日々を総括する取材で何度か会った。そして──また、真っすぐな視線の彼が「ロータス世田谷のYBTで練習したいです」と口にした。

青木と北岡と練習することは怖い。ただし、そこにダイブしないとサバイブすることはできない。そんな覚悟が感じ取られた。

2009年2月27日、旧ロータス世田谷で宇野薫は青木真也に壁や金網に押し込まれ、テイクダウンされ、バックチョークを取られた。ここから、新たな宇野薫のMMAストーリーが紡がれていった。


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