【AJJC2016】フェザー級出場、チャールズ・ガスパー<01>「パイシャオンに誘われて柔術を始めた」
【写真】重量級でなくフェザー級にエントリーしてきた今年のガスパー。やはり、見る側としては軽量級出場の方が楽しみだ(C)MMAPLANET
10&11日(土・日)に東京都足立区の東京武道館で国際ブラジリアン柔術連盟=IBJJF主催のアジア柔術選手権2016(Asian Jiu-Jitsu Championship 2016)が開催される。
このアジア大会のアカデミー対抗戦で必ず上位に食い込むのは、IBJJFアカデミー・ランク7位となったImpacto JAPAN B.J.Jだ。そのImpactoの得点稼ぎ頭がチャールズ・ガスパーだ。ここ数年は重量級にエントリーしてきたガスパーが、今年はフェザー級に出場する。
イザッキ・パイヴァ、杉江大輔、大塚博明、塚田市太郎らが出場、熾烈なメダル争いが展開されそうなフェザー級トーナメントへの意気込みを訊く前に、ガスパーの柔術との歩みを尋ねた。
――チャールズ・ガスパー選手は過去のアジア選手権で、2013年がスーパーヘビー級1位、2014年と2015年はウルトラヘビー級で2位に入り、今年のムンジアルに出場できるポイントを獲得していました。しかし出場していなかったのは、何か理由があったのでしょうか。
「ブラジルにいる父親が尿結石で入院したんだ。それでお金が必要になってね……」
――えっ、そうだったのですか。
「日本で働きながら両親を経済的に助けているんだけど、父が入院したために、いつも以上にお金が必要になった。そのために今年のムンジアルは諦めたんだよ」
――現在お父さんの体調は?
「おかげで良くなってきているよ」
――お父さんが入院されて以降、ブラジルには帰国したのですか。
「いや、電話で話しただけだね。というより18歳の時に日本へ来てから10年、一度もブラジルには帰っていない。最初は1年ぐらいでブラジルへ帰ろうかと思っていたんだけど、気づけばもう10年も住んでいる。今年でもう28歳になったよ」
――つまりガスパー選手は18歳までブラジルで暮らしていたんですね。
「そう。ブラジルのアマゾナス州パリンチンスという場所で生まれたんだ」
――アマゾナス州といえば、最大の都市マナウスはヒベイロ兄弟やホナウド・ジャカレ、ビビアーノ・フェルナンデスいった名柔術家を輩出していることでも知られています。一方、同州パリンチンス出身の柔術家といえば……。
「フレジソン・パイシャオンだ!! 僕はそのパイシャオンに誘われて柔術を始めたんだよ。9歳の時だった。近所に住んでいたパイシャオンに『柔術をやってみないか』と声をかけられて。僕も彼が柔術の練習をしているのを見ていて、柔術をやりたいと思っていた。だからパイシャオンと同じ道場に入ったんだ」
――すると、最初の先生はオズワウド・アウベスさんなのでしょうか。
「いや、アウベス先生の弟子が、僕に柔術を教えてくれたんだ」
――パイシャオンといえば2001年、2002年、2005年とムンジアルを制しています。ガスパー選手が柔術の練習を始めてからのことになりますが、そんなパイシャオンの活躍を見て、どんな印象を抱いていましたか。
「当時、僕はまだ子供だったけど、パイシャオンのことは誇りに思っていた。ブラジル国内だけでなく、海外でも活躍していたからね。今でも彼は僕にとって憧れの柔術家さ。ずっとパイシャオンのような柔術家になりたいと思っていたんだ」
――そんなガスパー選手が日本に住むようになった経緯を教えてください。
「日本へは働くために来た。ブラジルではずっと学校に行きながら柔術の道場に通っていたんだけど、父が経営している家具の会社も手伝っていた。でも不景気になってね。経済的に両親を支えるために、日本へ働きに行こうと思ったんだ」
――それが18歳の時、10年前のことなのですね。
「うん。日本でも柔術の練習ができると聞いていたし。日本に来た時は青帯だった」
――日本で柔術を練習する場所は、誰かから紹介を受けたのでしょうか。
「紹介というのはないね。もともと叔母さんが日本にいて、その叔母さんと一緒に住んでいた家の近くに小川柔術があったから、そこに通うようになったんだ」
――アレッシャンドリ小川選手の道場ですね。
「だから僕にとって、日本で最初の先生はアレッシャンドリ小川さん。小川柔術に通い始めて6カ月で紫帯になったよ。でも当時は大変だった」
――大変だった、というと?
「日本も不景気になっていた頃だったから、なかなか仕事を見つけることができなかったんだ。日本に来て最初の6カ月は仕事に就くことができず、アルバイトと柔術の練習の毎日だった。今にして思えば、あの頃が一番練習していた気がするよ(笑)」
――仕事に就くことができなかったからこそ……。
「1日4回ぐらい練習していたね(笑)。小川先生には本当に感謝しているんだ。あの頃はお金がなかったから、小川先生に『不景気でお金がありません。道場の掃除をするので、ここに通わせてください』とお願いすると、先生は受け入れてくれたから」
――そこから今はIMPACTO JAPAN B.J.Jへ。
「仕事の都合で引っ越すことになり、引っ越した先の近所にアサダ・トシオさんの道場があったから移籍したんだ。当時は道場の名前もグレイシー・バッハだったね」
――グレイシー・バッハ愛知ですね。その後、IMPACTO BJJの支部となりました。ガスパー選手も日本に来てから紫、茶、黒帯と昇格していきましたが、日本ではどのような目標を持って柔術に取り組んでいたのでしょうか。
「日本に住み、日本で柔術をやっているので、全日本のタイトルを目標にしていたよ。海外の大会で優勝したりもしたけど、日本には強い日系ブラジリアンの柔術家がたくさんいるし、彼らに勝って全日本のタイトルを獲りたいと思っていた」
――2012年に茶帯で全日本優勝、黒帯に昇格してからも2013年はミディアムヘビー、2014年はライト級で全日本を制しています。様々な階級で試合をしているのはなぜでしょうか。
「いろんな階級で試合をすることは、僕にとってチャレンジだ。ブラジルで柔術を教えてくれた先生が、いつも言っていたんだよ。『対戦相手がいるなら、勝ち負けは関係なく、どんな階級でもチャレンジしたほうが良い』って。
いつも同じ階級で、同じ相手と試合をしていると、お互いにどういう試合をするのかが分かってくるからね。だからどんな試合をしてくるか分からない、いつもとは違う相手と試合をすることも重要だと思っている」
――その試合では、どんな相手でもバックを奪っている印象が強いです。
「うーん、どちらかというとバックを奪うより、腕を取りに行くほうが好きなんだよね」
――腕を取る、サブミッションを極めるということですか。
「そうだね。でもこの数年で柔術は大きく変わった。相手の動きを見ながら、ポイントを稼がないといけない。だから僕もバックを奪うことが多くなったんだ。今は序盤でしっかりポイントを稼いでから、最後はサブミッションを極めたいと思っているよ」
<この項、続く>