【on this day in】4月09日──2011年
【写真】PRAY FOR JAPANと記されたファイティングショーツを履いた川尻達也の試合を祈るような想いで見ていた日本人のためにも、川尻はケージに足を踏み入れていたに違いない (C)GONGKAKUTOGI
Strikeforce
@カリフォルニア州サンディエゴ、バレービューカジノ・センター
「川尻達也はギルバート・メレンデス戦に関して、『ケージに立って試合を成立させた時点で、全てを使い果たしていた』と振り返っている。MMAの覇権が日本からUFCへ移り、そのライバル団体だったStrikeforceがズッファに買収された。いきなり、試合はエルボー有りのユニファイドという名のUFCルールに変更された。ただし、この業界を揺るがすような大事件も当時の日本にいては、然したる問題には思えなかった。それは所詮、MMA界の話だからだ。3月11日、本当に多くの人を亡くした。加えて原子力発電所の事故と、人類が経験したことのない大きな危機に直面していた国にあって、誰もが──どんな職種についていようが、『こんなことをしていて良いのか』と自問自答していたに違いない。茨城県在住の川尻は震源地にも原発にも近い場所を生活の拠点としていた。マルタイン・デヨングは『原発から280キロ以内にいてはいけないという通告がオランダ政府からあった。何をやっている? 早く西の方へ避難しろ』と国際電話で怒鳴って来た。あの頃の川尻の周囲がどれだけ危険で、それまでの日常と違うモノになっていたか、僕には想像すらできない。それでも川尻には試合に出ないという選択肢はなかった。勇気を示すこと。それが彼にできる、日本人のための行動だったのだろう。試合は惨敗だった。川尻のその後のMMAファイター人生は順風満帆とは程遠い。網膜剥離を患い、引退覚悟で練習に臨む必要があった。それでも川尻は戦い続けている。対戦相手だけでなく、自分とも戦い続けている。メレンデスに立ち向かえたことで、『あれ以上、精神的に厳しいことはない』と言い切れる強さを手にすることができた。そう、ファイター川尻達也は試合に敗れたが、人間として勝者であった。なんていっても、彼自身は何ら納得できないだろう。だからこそ、ベルリンでデニス・シバーに──」
on this day in──記者生活20年を終えた当サイト主管・髙島学がいわゆる、今日、何が起こったのか的に過去を振り返るコラム。自ら足を運んだ取材、アンカーとして執筆したレポートから思い出のワンシーンを抜粋してお届けします。