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【Gladiator X Demolition02】フライ級初防衛戦に臨む加マーク納─01─なぜ、加マーク納なのですか??

Ka Mark No【写真】恩人といっても過言でない三島☆ド根性ノ助ポーズを決める加マーク納(C)MMAPLANET

9月2日(日)、大阪府堺市の堺市産業振興センターで開催されるGladiator × Dmolition 02で、グラジエイター・フライ級チャンピオン加マーク納が、NavEの挑戦を受け王座初防衛戦を戦う。

Ka Mark No vs NavE昨年8月の同じ顔合わせで接戦を制しチャンピオンをベルトを巻いた加マーク納は、金網で戦うことを優先し数多くのイベントで戦ってきた異色のキャリアの持ち主だ。そもそも加マーク納というリングネームが意味不明。そんな加マーク納に今回の試合への意気込みと同時に、これまでのキャリアの積み方について尋ねた。


──まず最初に加マーク納というリングネームの由来について、教えてもらっても良いですか。

「あのう相補体術に加納マーク学さんという選手がいて、コブラ会に入門した時に加納という名前だということで『なら、お前マークなぁ』って言われて(笑)。それからマークと呼ばれていたのですが、プロになる時にリングネームは普通じゃ嫌なんですって三島(☆ド根性ノ助)さんに言うと、『加納の間にマークって挟んだらエェやん』という鶴の一声でリングネームが決まりました(笑)」

──嫌ではなかったですか。

「仕方ないなぁと思いました(笑)」

──加マーク納選手は柔道が相当強いと伺っています。

「いや、そんなことないです。柔道で高校進学が決まっていたのですが、総合がやりたくなって『高校行かへん』って家出をして、戻った時に父親から『高校に行くんやったらエェジムを教えたる』っていわれたんです。

ウチのオヤジが、三島さんが中学の時に柔道を教えていて。だから三島さんのところを紹介してくれるということやったんですけど……。実家は兵庫県の高砂というところにあって、学校は神戸の育英高校で。練習が終わって家に戻ると、もう9時頃やしそこから大阪まで総合格闘技の練習をしにいくなんて絶対に無理でした」

──まんまとお父さんの術中にはまったわけですね(笑)。

「騙されました。そのままの柔道の練習を続け、大学も国際武道大学に進んだんです」

──柏崎克彦先生の指導を受けていたのですか!!

「いえ、もう僕の頃は柏崎先生は柔道部の顧問から外れていました。授業では柏崎先生に技とか教えてもらえることがありましたけど。それに大学生になって、余りにも自由な生活に浸ってしまい、柔道部自体を辞めてしまったんです。というか練習にいかないから、僕の名札が知らない間に外されてしまっていました」

──なんと!! 柔道で進学して、柔道部を辞める。その後はどのような大学生活を送っていたのでしょうか。

「武道学科だったので、その歴史を学んだり、薙刀の実施授業を受けたりして、それで何かと就職もできるんですよ」

──MMAの練習をその時にやるという選択はなかった?

「取り敢えず大学は卒業しようと思っていたので、MMAをするのはこっちに戻って来てからやと。まぁ、何も考えていなかったんです。ずっと筋トレをして、柔道部の練習が終わると道場へ行って、柔道部の人間を捕まえて練習したり。その時の仲間の1人が、今コブラ会にいる永井美自戒(ながいみじかい)なんですよ」

──えっ!! 永井選手は柔道部員だったのですか。

「ハイ。4年半大学に通っていましたね(笑).」

──ハハハハ。その後、加マーク納選手は大学を卒業してコブラ会に?

「ハイ。実家には戻らず大阪に引っ越して入会しました」

──国際武道大にまでいく柔道と、ウェイトをやっていたのであれば一般の会員さんは相手にならなかったのではないでしょうか。

「ハイ。それはそうでした。ただ、プロになっても週に1回練習するかどうかって感じだったんです」

──ようやくMMAを始めたというのに?

「なんか一回、羽ばたいちゃったんですよね。高校から大学にいって自由になって。その流れで……アマチュアなら勝てていたのもあって。マッチョ(ザ・バタフライ)さんとかは、もっと練習せなあかんで』って言ってくれたんですけど、全然聞く耳を持っていなかったです」

──そのアマチュアでの戦績というのは?

「アマ修斗の関西選手権の決勝で竹中(大地)君に勝ったんですけど、全日本では1回戦で当たって負けました」

──それでも竹中選手と1勝1敗だったわけですね。

「ハイ。全日本のあとワンマッチに出て、プロ昇格できました」

──ただしプロ修斗出場は1度だけです。そして、その修斗で敗れた1年9カ月間、試合にでずWARDOGで再出発を図りました。

「ロクに練習せず、階級も1階級重くて修斗に出て負けました。あの時、子供ができたのが分かった時期で三島さんは全然練習していない僕に『作り直そか』と言ってくれて、スタッフとしてコブラ会で働かせてもらうようになったんです。

体を作り直すことから始めて1年以上、試合に出ずに毎日練習するようになりました。スタッフは去年の年末まで続けさせてもらったのですが、あれから飲んで遊んでいるより、道場にいることが面白くなって。毎日練習してジムの人たちとも付き合いができて。スタッフをさせてもらってなかったら、今も酒を飲み続けていたでしょうね。

作り直している時に、三島さんは『壁の方がエェんちゃう?』っていうアドバイスもしてくれたんです」

──その結果、WARDOGからキャリアの再構築が始まったのですね。

「相手がALIVEの村元(友太郎)君というのもワードッグに出た理由ですね。その試合が決まる前に鈴木(陽一ALIVE代表)に焼肉をご馳走になったことがあって。『ALIVEのフライ級に凄く強いのがいるから』って凄く力説されたことがあったんです。正直、その時から村元君のことをしばいてやりたいって思うようになって」

──う~む。鈴木社長も本当に要らぬ自慢をしたものです(笑)。

「ホント、あの話を聞いた時にしばきたいって思いました(笑)。正直、対戦相手が村元君じゃなかったら金網でもワードッグには出ていなかったかもしれないです」

──村元選手も、そんな風に敵対心を持たれていたとは心にも思っていなかったでしょうね。

「だと思います。試合は組んでくる村元君に対して、僕は打撃ばかり使う展開になり判定勝ちできました」

──そこからHEAT、Grandslamと金網を渡り歩くようになったのですね。

「当時は金網で勝ち続けて、グアムのPXCとか海外から呼ばれるようになりたいと考えていました」

<この項、続く>

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