この星の格闘技を追いかける

【Gray-hairchives】─02─Sep 30th 2009 Michael Bisping

Bisping【写真】この頃、ビスピンがトラッシュトークの権化になることはUFC世界ミドル級王者になることよりも予想できなかった(C)MMAPLANET

1995年1月にスタートを切った記者生活。基礎を作ってくれた格闘技通信、足枷を外してくらたゴング格闘技──両誌ともなくなった。そこで、海外取材のうち半分以上の経費は自分が支払っていたような取材(いってみれば問題なく権利は自分にあるだろうという記事)から、最近の時事に登場してくるファイターの過去を遡ってみようかと思う。

題してGray-hairchives。第2弾はGONG格闘技210号より、マイケル・ビスピンのインタビューを、まず後記から振り返りたい。


【後記】

ADCC2009がバルセロナで行われ、大会翌日にロンドンに入り、そのまま鉄路でリバプールに向かった。取材を行ったウルフスレアーはリバプールから電車で30~40分ほどのウィッドネスという街にあった。

キックボクシング&パウンドという印象だったビスピンが、練習で見事なガードワークを使いこなし、関節技を極めていることに驚かされた。彼は練習後、すぐに家の用事でジムを出ないといけなかったが、ポール・ケリーに僕を最寄りの駅まで車で送るように頼んでから帰路についていた。

――マイケル・ビスピン選手のUFCでの地位向上と、英国MMAの成長が重なって見えるのですが、MMAが根付いていなかったこの国で、いつMMAファイターになろうと決心したのですか。

「8歳の時にジャパニーズ柔術、ヤワラ柔術を始めて以来、ずっと僕の人生はマーシャルアーツとコンバットスポーツが中心だった。子供のころから、何をするにも夢中になっていたから、格闘技を始めてからも、一生懸命練習し続けていたよ」

――ヤワラ柔術というのは、古流の護身術のようなものですか。

「なんだろう? 家の近くにあった道場で、兄がやっていたから僕も始めたんだけどね。今からいえば投げも打撃もあって、何でも有りに近かった。でも、なぜジャパニーズ柔術だったのかは、今も分からない(笑)。当時はMMAなんて知らなかったけど、打撃も顔面を直接殴るし、グラウンドもあったんだ。ヤワラ流柔術は18歳まで、10年間続けていたよ。ポール・デイビーという先生だったけど、彼はノックダウン・スポーツ・ブドーという名で大会も開いていたんだ。

MMAが本格的に伝わる前だし、レベルは決して高くなかったけど、14歳からトーナメントにも出て、16人トーナメントを何度も優勝したよ。基本は法的にも認められていたトーナメントだったけど、その雰囲気は限りなくアンダーグラウンドっぽかったよ(笑)。僕は最初の頃はギを着て出場していて、対戦相手はTシャツにレスリングシューズを履いている連中とか、いろいろだったよ。そう、ヤワラ流柔術とこのトーナメントがファイターとしての僕のバックグラウンドになっているんだ」

――とても興味深い話です。ヤワラ流柔術の練習をしていて、そのままプロMMAファイターになろうと思ったのですか。

「すぐにではなかった。21、22歳のときかな、大学にも行っていなかったし、稼ぎも良くない。キックボクシングを続けていたけど、これからどうやって生きていこうかと思った時に、僕はずっと格闘技をやってきて、大会でも結構な成績を残していたんだから、プロのファイターになろうって決心したんだ。

まずはプロフェショナル・ボクサーになろうって思った。でも、マーシャルアーツのバックグラウンドがあるし、日本のPRIDEや米国のUFCなどMMA人気が高くなっていたから、MMAファイターを目指すことにしたんだ」

――それはいつぐらいのことですか。

「2003年だよ。それまでの仕事をやめて、週末にリバプール周辺でDJをやって稼ぎ、月曜日から金曜日はノッティンガムに移り住み、ラフハウス・ジムで練習するようになった。MMAの練習を始めた頃から、ヤワラ柔術で見につけたモノが役に立っていた。まだまだ英国じゃあ、しっかりしたMMAトレーニングを積むことは難しい状況だったからね。

それからはブラジリアン柔術の良いアカデミーがあるって聞けば、そこを訪ねて練習させてもらったり、色んな場所でトレーニングした。米国にレスリングの練習にも行ったし、バンコクへ行き、ムエタイも習ったよ」

――MMAが普及していないがゆえの苦労ですね。

「全然苦労じゃない、凄く楽しかったさ(笑)。でも、2004年にウルフスレアー・ジムができたから、それからは楽になったね。車で1時間弱の移動で、必要なトレーニングは全て積めるようになったからね。ここではブラジル人のマリオ・スカタ・ネートが柔術の指導をし、黒帯のブラジリアン柔術家たちもひっきりなしにやってきてくれる。ムエタイのトレーナーもいるし、ボクシング・コーチのおかげで、一段高いレベルで戦えるようになった」

――プロMMAデビューも04年ですね。

「そうプライド&グローリーっていう小さな大会だった」

――そこからビスピン選手の快進撃が始まります。

「3戦目でケージレイジのチャンピオンになって、7戦目にFX3というイベントのチャンピオン、ケージ・ウォリアーズでもメイン級の試合に出させてもらった。この頃、英国のMMA大会も徐々に規模が大きくなっていたよ。父は子供のころから、僕が練習したいといえばどこまでもドライブしてくれるような人だったし、ガールフレンドも僕がやりたいことに専念できるようにサポートしてくれた。

彼女は目の前のお金を稼ぐことでなく、僕の未来を信じてくれていたから、必死になって練習し、戦ったよ。当時、PRIDEの盛り上がりが僕の支えだった。全ての大会をチェックしていた。最高のファイターが揃い、素晴らしい観客が存在した。あの頃は、PRIDEかUFCで戦うことが目標だった。TUF3に出演し、その決勝を控えていた時に、PRIDEが活動停止すると聞いた時はもの凄く悲しかったよ」

――そのTUFですが、どのような経緯で出演が決まったのですか。

「当時、英国の大会で10連勝中で、この国では敵なしだった。マネージャーはUFCかPRIDEで戦えるように働きかけてくれていて、UFCの方からTUFで英国人ファイターが2人必要だとリアクションがあったんだ。本当に運が良かった。あのタイミングで、英国人ファイターを探していたなんて完璧だったよ。番組プロデューサーに連絡を取るように言われて、電話をするとロンドンでオーディションがあるから受けてくれって」

――オーディションは、どのような内容だったのですか。

「試合をするわけでなく、練習のなかで柔術の腕前、パット打ちなどをダナ・ホワイトや大勢の人間に見られた。面接も受けたよ。オーディション会場に入ると、『あっ、これは僕が受かるな』って直感した。彼らが僕に期待しているのが、分かったんだ」

――その場でも受かる自信があったと。

「だってね、一緒にオーディションを受けていたのは、僕に負けた連中ばかりだったから(笑)。こりゃぁ、いけるってね。アドバンテージは僕にあるって思った。ラッキーだったね。UFCにデビューして、僕の人生は変わった。UFCはこのスポーツを本気でプロモートしている。今、この国の人々は僕が何者で、どんなことをやっているのかを理解してくれる。僕が有名になったとか、そんなことは別にどうでもいいんだ。

僕が心血を注いでいるMMAというスポーツを多くの人たちに理解してほしかった。同時にUFCのおかげで、新しい家を建てることもできたし、貯金もある。車も3台持てるようになった。UFCには感謝の気持ちでいっぱいだよ」

――絵に描いたようなサクセスストーリーですね。

「プロMMAファイターになろうと思った頃、『何を金網のなかでやっているんだ?』、『そんなことをやっていて、何もならない』、『トップを目指す? 夢を見るんじゃない』、『金を稼ぎたいなら、ケージに入るんじゃなくて、大学に通え! そして良い仕事を見つけろ』、そんなことばかり言われていた。でも、あの時、思い描いたような人生を送ることができているんだ」

――今の話を聞いていると、ビスピン選手はもう満ち足りてしまっているにようにも感じます。

「なぜ、MMAを目指したのか。それはお金のためでも、周囲を見返すためでもない。このスポーツが好きだからだ。子供のころから、格闘技の練習をすることが大好きだった。その延長戦上に、今もある。そして、今もこのスポーツを理解していない人が残っている。

幸い、家族を養うことができるし、このスポーツをもっと広めるために戦い続けたい。オクタゴンで戦うことに、モチベーションが下がることなんてありえないんだ。高いレベルで戦い続け、もちろんその頂点を狙っている。だから、ライトヘビー級からミドル級に階級も下げたんだ」

――そのミドル級で頂点を狙うための大一番、ダン・ヘンダーソン戦で敗れてしまいました。それはしょうがないことですが、これだけMMAを人々に浸透させようとしているビスピン選手にとって、失神したあとのヘンダーソン選手の一撃をどのように捉えていますか。あれが認められ、観客が喜んでいるままでは、MMAはスポーツだと胸を張って言えないような気がします。

「その通りだと思う。そんな風に言う人も、僕の周囲にもたくさんいるよ。僕自身は、スタンドのパンチで失神してしまったから、何が起こっているのか分かっていなかったけど、レフェリーの処置を含め、考えるべき事象だと思う。あのシーンをあとから映像で見て、ベルトは欲しいけど、とにかくダン・ヘンダーソンにリベンジしたい気持ちでいっぱいになった。彼が一度、僕に勝ったのはいい。負けは負け、それは認める。でも、もう一度彼と戦いたい」

――となれば、マンチェスターで行なわれるデニス・カーン戦は何がなんでも負けられないですね。

「とても大切な一戦になる。どの試合も、大切でない試合なんてないけど、次の試合は特に重要になってくる。デニス・カーンは尊敬すべきファイターだ。でも、前回の敗北を払拭し、自分の誇りを取り戻すためには勝利が必要なんだ」

――いつの間にやら凄い面子が揃ったミドル級で、連敗はタイトル戦線から遠ざかることを意味してしまいます。

「でも、本当に凄いメンバーが揃ってきたよ(笑)。タイトルが近くなると思って、階級を下げたら、こっちの方が大変な状況になっていた(笑)」

――ミドル級には、日本人の岡見勇信選手もいます。彼に対しては、どのような印象を持っていますか。

「ユーシンは、素晴らしいファイターで、フィジカルも優れている。ヴィトー・ベウフォートが、復帰1戦の勝利だけで挑戦権が与えられるような感じだけど、ユーシンがチェール・ソネンに勝てば、タイトルに挑戦する資格を十分に持っているはずだ。

ヴィトーはビッグネームで、僕はその立場にないから、偉そうにいえないんだけど、強すぎる王者が少しでも苦戦するかもしれない――そんな状況をズッファは欲しているんじゃないだろうか。ただ、僕がダン・ヘンダーソンやネイト・マーコートの立場だったら、あまり愉快じゃないよね」

――ビスピン選手の言っていることの意味は十分に理解できます。ところで、日本には秋山成勲というミドル級ファイターもいますが――。

「セクシーヤマだね(笑)。アキヤマはすぐにUFCミドル級でトップに上がってくるだろう。彼はデニス・カーンをKOしているから、何度もその試合を見て、よく知っているんだ(笑)。アキヤマのようにデニスを倒すから、僕の試合を見る機会があれば日本のMMAファンも僕を応援してくれるととても嬉しい。そんな日本の皆さんに、WWWドットBISPINGドットコムをチェックしてほしいと伝えてくれるかい?」

――もちろんです。

「WWWドットBISPINGドットコム、忘れないでくれよ(笑)」

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