【Special】第1回、MMA版あいつ今何してる? 神部建斗─01─「格闘技はできなくても普通の生活に……」
【写真】4年3カ月振り、23歳になった神部建斗がMMAPLANETに戻ってきた (C)MMAPLANET
MARTIAL WORLD Presents新訪問シリーズ=「MMA版あいつ今何してる?」──第1回は第2代ライトフライ級キング・オブ・パンクラシスト=神部建斗を訪ねた。
17歳でプロMMAデビューを果たし、2015年12月13日には19歳でパンクラスでベルトを巻いた。現状としてはベルトを巻いた試合が神部にとって最後のMMAとなっている。
プロMMAファイターとして実働期間は僅か2年5カ月、ケージを離れてから4年3カ月が過ぎた。23歳になった神部は、あれからどのような時を過ごし、今何をし、これからどこへ向かおうとしているのか。彼がパーソナルで指導をしている都内・某所を訪ねた。
──早速ですが、インタビュー宜しくお願いします。
「ハイ。お久しぶりです(微笑)」
──本当にその言葉通りです。神部選手が最後に試合をしたのは2015年の12月でした。
「19歳になった翌月でしたね。もう4年になります。新しいファンは僕のことなんて知らないでしょうね……」
──武蔵幸孝選手とのライトフライ級王座決定戦で王者になり、その後ケージから離れました。かなりの腰痛持ちだというのは当時から伝わっていましたが、実際のところはどのような症状だったのでしょうか。
「あの時点で2年ぐらい腰の調子は悪いような感じでした。まぁ、俺の悪いところなんですけど、病院に行かないしケアもしない。練習前にアップもしない……そんな昔の格闘家みたいなことを良いのか悪いのか、やっていて」
──いや、ダメでしょう(笑)。
「本当、そうッスよね。あの試合の時も、追い込みを終えた翌日に朝目を覚ますと、もう真っすぐに立つことができない。歩くと激痛がして……」
──周囲の反応はいかがでしたか。
「まぁ、歩けるならやれよ──と。俺も同じ気持ちでした。プロなんで痛いとか関係ない。決まった試合は我慢して戦うのが当然だと思っていたので。で、とりあえず病院に行くと『試合なんて無理だから』と言われました」
──症状としては?
「ヘルニアと坐骨神経痛です。まぁヘルニアはずっとヘルニアだったので注射を3本ぐらい打ってもらって、ようやくまっすぐ歩けるようになったので、試合はそのまま出ることにしました。でも試合の映像を見てみると、腰がずっと曲がっているんです。アップもミドルを一発蹴っただけで、痛みが酷くて動けないような状況でした。
武蔵選手のテイクダウンを切ることは絶対にできないことは分かっていました。打撃で秒殺するしかないと思っていたけど、武蔵選手がテイクダウンに来たから寝かされて。そこでもう取るしかないと思ってヒザ十字を仕掛けて、それで勝てたんです」
──試合中の痛みは?
「痛みはないけど、感覚が全くなかったです。そこがダメ出しになったんだと思います」
──あの時は試合後のインタビューで階級を上げるのか、下げるのかという将来の話もしていましたし、どれぐらいで復調できると考えていたのでしょうか。
「医者からは3カ月で練習できるようになると言われていました。でも3カ月が過ぎても、痛みは強くなっていて。それでも大ケガをしたこともなかったので、暫らく休めば良いかっていう気持ちでした。
2年半で10試合もしたので、ちょっと休んで放っておけば大丈夫だろうって。練習はできないけど、ジムには顔を出していたんです。でも1年近く経っても治らないので段々とヤバいなぁって思うようになってきていて……」
──2016年の10月にジャレッド・ブルックスに挑発されて、ケージサイドで切れていましたね。
「あの時はまだ行ける、戻れると思っていました。だから、アイツは本当に許せなくて。強いのは分かっていたけど、世界にはいくらでも強いヤツなんているし。とりあえず日本人を舐めるなよっていう気でいました」
──自分としては良い復活のストーリーができたなという感じでした。
「僕もそのつもりで、あいつの挑発に乗ったんです。そうしたら……あの後にもっと腰が悪くなってしまって。2週間ぐらい寝たきりになったり、トイレに行くのにロキソニンを飲まないと無理だったりして……」
──そこまでの症状だったのですね……。
「アルバイトも休ませてもらって、もちろん走れないし、練習なんてできなかったです。1年ぐらいですかね……そんな状態が続いたときに『もう格闘技は無理だ。せめて普通の生活がしたい』と思うようになったんです」
──手術は考えていなかったですか。
「やっぱりまた試合がしたかったですし、メスを入れたら戻れないということをよく耳にしていたので……。でも、本当にあの時のことを思い出すと……しんどかったですね。寝ていて1センチも足を上げることができない。くしゃみをしたら、腰の痛みで気を失ったりして……」
──……。言葉がないです。もう……。
「でも一番きつかったのは、痛みよりもメンタルでした。俺は格闘技がやりたくて田舎から出てきて、チャンピオンになれた。ボチボチ、欠場中もデカいところから声を掛けてもらえるようになっていたので、あとは上に行って勝負だっていう状況であんな風に動けなくなってしまって……」
──UFCが神部選手に触手を伸ばしていたという話も伝わっていました。
「ハイ……今だから言えますが、UFCもONEからも声を掛けてもらっていました。でも、全てが流れました……。あの頃は正直なところ、格闘技が嫌いになっていましたね。もう見たくなくて……自分がいない、あの輝かしい場面を見てしまうと、どうしようもなく妬んでしまいますし。アライアンスに行くことすら、嫌になっていました。
皆の練習を見て、俺は何もできない。格闘技が好きで、全てだったからきつかったです。で、何もしていない時に勝手に涙が流れてきて。涙が止まらなくなって、『もう終わったかな』って思いました。もう格闘技はできなくても普通の生活に戻れれば……という考えになっていきました。
ちょうどその頃に高島さんから連絡いただいて、自分がどうしているのか気にしてくれているし、俺もちゃんと話さないといけないって……ずっと気になっていたんです。でも、どうしても会って話すことができなかったです。申し訳ありません」
──いえいえ、こちらこそそんな状況だったことは露にも思わずに連絡して申し訳なかったです。
「格闘技はもうイイやって思うようになっていたから、話しなんてできなくて……。それから母親に『格闘技は辞める』って連絡して、高坂さんにも『少し、格闘技から離れます』という話をしました。20歳になってからですね……もう」
──その間はどのような治療をしていたのですか。
「今もスポンサードしてもらっている笑顔道整骨院の井上先生に診てもらうために週に1度、成田から東京まで通っていました。成田でも整骨院の方に個人的に応援していただいていて、リハビリやケアを毎日のようにしてもらって。
時間は掛かりましたね。でも井上先生をはじめ協力してくれた方々のおかげで普通の生活はできるようになったんです。格闘技は無理でも、多少の運動ぐらいなら大丈夫。だから普通に働いて、自分の人生を切り替えるタイミングが来たんだと……思うようにしていました」
<この項、続く>