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【Special】ゴング格闘技の真実──なんて大袈裟ではない、ゴン格の話を亀池聖二朗氏に尋ねる<01>

Kame chan【写真】亀池氏が10年以上のゴン格での仕事のなかで、最も記憶に残っているという一冊、一ページと(C)MMAPLANET

4月23日売りをもって、ゴング格闘技の歴史に幕が下ろされた。30年、紆余曲折がありながら日本の格闘技界と共に歩んできた雑誌の終焉。

2001年から同紙に関わり、昨年3月をもって編集から外れた亀池聖二朗氏にゴン格の思い出を語ってもらった。


──ゴング格闘技が4月23日売りをもって、休刊という形になりました。

「まず、ゴン格休刊という話が出回った時、自分のところにも恐ろしいほどの問い合わせが来ました。ただ、知らない方も多かったのですが、自分は2016年の3月いっぱいでゴン格編集部を離れて、同じイーストプレス内で書籍に移り、さらに昨年いっぱいで退社しています。

今は株式会社GIコンサルティングパートナーズで格闘技とは縁遠い仕事をしているのですが、ゴン格がなくなることに関しては、すごく残念です。ただし、『まさか』ということではなく『来たか』という気持ちでした。

格闘技通信がなくなり、Dropkickも紙媒体でなくなってから、ずっと明日は我が身という気持ちで創っていました。それは格闘技雑誌だけでなく、どんな雑誌、どんな出版社でも廃刊、倒産と聞くたびに、ゴン格はどうなるのかという気持ちでした。

凄く正直な話をさせていただくと、自分がゴン格を離れ、イーストプレスを離れてから、何が起こっているのか知らないし、知っていることもまた聞きのまた聞きだったりなので、SNSでも書きましたか、自分にそのことについて真相など聞かれても話しようがないです。知っていても話さないですし。

ただこれだけは言わせてほしいのは、自分がいた時は楽な状況ではなかったですが──平社員という立場の自分からすると、会社と編集長がどのような話をしていたかは知らないですが、休刊という方向性はなかったはずです。だから、この1年で色々なことが起こったんでしょうね」

──そもそも亀池君がゴン格に関わり合うようになったのは、いつ頃だったっけ?

「2001年の12月の最初からですね。ちょうど自分の誕生日と、その頃にちょうど付き合いだした頃ですから」

──あの寮長で、オッパイが大きかった子と?

「それはイィじゃないですか。そんな話は(笑)。大学4年生で、実は一般企業で内定は貰っていました。ただ、就活をしている頃から格闘技通信、ゴン格と編集部員の採用がないのかなど尋ね、格通は朝岡(秀樹※当時の編集長)さんから物凄く丁寧な返答で、新卒の採用は行っていないという旨の返答を頂きました。

ゴン格の方も電話で日本スポーツに問い合わせた時に新規採用はしていないということだったので、普通の会社に就職を決めたんです。

そうしたら、11月23日売りのゴン格にアルバイトの募集があって、連絡をしたら当時に宮地(克二)編集長から電話が掛かって来て、『明日、面接にこられますか』ということで。で、面接翌日から編集部にってことになったんです。当時のアルバイトの方が離れることになって、急を要していたようです(笑)」

──なるほど(笑)。

「で、一冊の制作に関わらせてもらって、内定している会社にお断りを入れて、そのままアルバイトですけど編集部で働くことにしたんです」

──人生が狂った一歩だ(笑)。でも、いきなり年末進行を経験したんだ。

「異常なまでの緊張感でした(苦笑)。アルバイト初日に宮地さんに編集部の奥に連れられていって、『高島学ってライターさん知っている?』って尋ねられたんです。で、僕が前田日明と揉めた人ですね──って返答して(笑)」

──アハハハハ。懐かしい。

「ただ、面接の時に何をやりたいと尋ねられて、僕は世界中の格闘技を見て回りたいと返答していたから、すぐに高島さんのところに自分を連れていこうとされたんだと思います。

で、宮地さんが僕を高島さんのところへ連れ行って、『新しいバイトの亀池君。修斗に詳しくて、高島さんのことを前田日明にしばかれた人って言っていたよ』って紹介したんです(笑)」

──えぇ……覚えないないなぁ。俺、何か言ったそれに対して?

「ハイ。『しばかれてへんわぁ』って、大声で言われていました(笑)」

──アハハハハ。しかし、宮地さんらしい。

「ホント、2つとも嘘で。その後に僕がRINGSが好きで、修斗のことを余り知らなかったこともバレて、メチャクチャ怖い顔で睨まれたし(笑)」

──まぁ笑い話ということで(笑)。

「ヤバいところに来たなぁって思いました」

──怖かった?

「怖くないわけがないじゃないですか(笑)。でも、あの時は宮地さん、熊久保(英幸)さんも茂田(浩司)さんも怖かったですよ。まだ、皆さんが35歳にもならない頃で。本当にピリピリしていて、ほんとうに怖かったです。

今みたいにデジタル化の前で、ポジで速報とかしていた頃だから、大会の途中でフィルムのテスト出しをして、大会後に本番。そこから2時間を経てポジが上がって来ると、もう翌日になっている。そこからデザイン出しをして、本文を書くのを6時間ぐらいで済ませないといけない。

そんなのピリピリしないわけがないですよね。写真を切っている時のライターさんたちの『速くしろよ』っていうプレッシャーはシャレにならなかったです

でも、皆さんがそれぞれ自分のページを一番面白いモノにするんだっていう気持ちがあって」

──宮地さんは本ができてから、『ここはダメ。ここは〇〇さんの方が面白かった』ってハッキリと、結果を口にする人だった。まず、この人に面白いと思われるモノを創るんだっていう気持ちだったのは覚えている。

「任せる代わりに、厳しかったです。僕レベルだと、ページを任させるようになった時も凄いプレッシャーでした。逃げ出したくなるような」

──まぁ、アルバイトの大学生には理解のしがたい空間だったと思う。だいたい写真切りなんて、やったこともないはずだし。

「ハイ。その写真切りが主だった時、2冊目が魔の100人インタビュー号でした」

──アッハハハハ。ゴン格の100人インタビューと、格通の選手名鑑はアルバイトの離職率が、驚異的に高くなる仕事だった(笑)。

「100人インタビューの写真選びは、自分のなかでずっと残っている仕事です。宮地さん、熊久保さん、高島さんに散々お叱り受けて」

──ひょっとして、俺のイメージダウンのためにインタビューで話す気になった?

「そんなことないですよ(笑)。やっぱり写真選びとか甘くて……その時に高島さんに『あのなお前が、何の気になしに──どうでもよく写真を選ぶ。でも、この選手が雑誌に顔が載るのは、人生でこの1回だけかもしれへんのや。そんな時にこの顔の写真を掲載されたら、お前は嬉しいか?』と言われました。

そして自分が『嬉しくないです』って答えたら、『そんな写真、選んでくるなッ!!』とピシャリと」

──正しいやん。

「ハイ。本当に。宮地さんからも、まず写真のどこにピンが来ているのか確認する──そこから教わりましたし。僕はしっかり育ててもらったと思います。ホント、最近の子たちと比較すると。

雑誌は企画ありきだから、どういう企画が過去にあったのかを頭に入れて、そのためにリストにまとめておけって言われて。ずっと各企画はストックしていました。ネットでカチャカチャやって、出てくる時代じゃなかったので。あれは、ずっと自分の財産になっていました」

<この項、続く

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