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【Special】追悼、ブランコ・シカティック。「ベーリ・デンジャラス」1998年6月、サグレブでの思い出。

Branco Cikatic【写真】ブランコがブランコ!! こんなことをお願いできたもの、シカティックが心底フレンドリーだったからだ(C) MMAPLANET

初代K-1GP優勝ブランコ・シカティックが65歳にして、肺塞栓症で亡くなった。このK-1人気を創った立役者が死去したニュースは、すぐさま日本国中を駆け巡った。

彼が第1回K-1GPを制した1993年は、自分はまだこの仕事に就いていなかった。伝説の拳、石の拳という風に呼ばれるようになったシカティックは、クロアチア紛争時に特殊部隊で活躍し、銃及びナイフで戦闘に加わり、自ら敵兵を殺めたことを格闘技通信のインタビューで口にするなど、明るく新しい格闘技を築き上げようという風潮のK-1にあって、イチ読者からしても特別な空気感を醸し出している人として映っていた。

「リングでバーリトゥードを戦うと、シカティックよりヒクソンの方が強い。でも、爆撃機が空を飛び、砲弾や銃の弾が行きかう戦場なら、素手で戦ってもシカティックの方が強い」。シカティクのK-1制覇から1年9カ月後にこの仕事を始めるようになった──自分の持論だった。戦時下、戦闘中で人を殺めることと、格闘技で強さを争うことは次元が違う。そして、そんな世界を行き来していたシカティクは、ヒクソンの威厳とは違う、怖さを持ち続けていた。

「そんなことあるか。ブランコはとても明るいエェ男や」。1998年6月、クロアチアはザグレブにあるティガージムを訪れる直前に、格通のオランダ通信員だった遠藤文康さんから聞かされても、素直に聞き入れることはできなかった。

この時、自分はワールド修斗でプロデューサーになって2年目の坂本一弘氏(現サステイン代表)が、軽量級のファイターを発掘すべくオランダを起点に、ロシア(サンクトペテルスブルク&モスクワ)、クロアチアを訪問するのを同行取材しており、アムステルダムでは遠藤さんのお宅で寝起きさせてもらっていた。

ロシアで10日間ほど過ごし、オランダでIMAやマルタイン・デヨングの下を訪れ、いざザグレブへ。僅か2泊3日の弾丸訪問だったが、ここで遠藤さんの言う「そんなことあるか」というシカティックの素顔を、初めて垣間見ることができた。

とにかく日本のことが大好きで、MMAキック・東金ジムの越川昭(当時)会長を真似て、何かあると「ベーリ・デンジャラス」というのが口癖のようになっていた。

建物の壁には、まだ銃弾の跡が残り、ホテルでも空襲の際には──という案内板が見られたサブレグの2日目は、坂本さんがシカティック率いるティガージムの柔術クラスで寝技を学ぶキックボクサー達=MMAファイターの卵の練習を視察し、シカティックと選手の交流の話し合いをするという予定だった。シカティック自身は多忙で練習に参加しないし、取材の時間もないと事前に聞かされていたが、彼は道着の袖に腕を通し寝技の練習を始めた。

そして普通に下からの十字でタップしながら、満面の笑みを浮かべていた。彼自身、PRIDEでMMAを戦い始めたばかり、44歳のオールドルーキーは新しい技術を学ぶことが楽しくてしょうがない風であった。

そんなファイターだけでなく、ジム経営、そして恐らくは本職であった警備会社ティガーの実務と多忙を極めていたはずのシカティックは、練習後の会話の流れで自然とインタビューに応じてくれ、ホテルに我々を送ってくれるや「やっぱり日本から来たのなら、魚だろう」とディナーの誘いがあった。

当時婚約者だった──体調を崩してからも、彼を支え続けた──後のイワナ夫人を紹介され、美しいだけでなく聡明な彼女を加わったことで、シカティックとの会話はさらに弾んだ。

翌日には「ランチに行こう」と、約束の時間よりも早くホテルに迎えに来てくれたシカティックは、レストランに行く道中に色々とクロアチアのことを話し続けた。今やザグレブのどのあたりにあったのか皆目見当もつかないが、1時間以上もドライブして山の中腹にあるテラスと緑の庭園を持つレストランに到着した。

山羊の肉とともに、白ワインに氷をガンガンいれたワイングラスを何杯も何杯も我々に勧め続けたシカティックは、ずっと練習後に負けない笑顔を浮かべていた。

そして、ハードな日程で視察を続けていた坂本さんの頭がこくりと、揺れ始めるのを見極め「ではホテルへ戻ろうか。オランダに戻るのは朝一の便だろう」と言うシカティックの言葉で、恐らくは自分の人生のなかで十指に数えられる最高のランチは終了した。

この時、レストランの庭園の脇にブランコを見つけた。坂本さんに負けないほど、酒が回っていた自分はザグレブ訪問を前に抱いていたシカティックの印象などどこかに吹き飛んでしまっており、「おい、ブランコ。これは日本ではブランコと呼ばれている子供の遊び道具だ。ブランコなんだからブランコに乗れよ」などという調子で、上の写真を撮影させてもらった次第だ……。

小さな子供用のブランコに、ブランコが座って体を揺らす。大きく軋む音が聞こえ、シカティックが呟いた──「ベーリ・デンジャラス」。

「今度、日本から来るならオーストリア航空でウィーンにやってくれば良いよ。迎えをよこすから、そうすれば乗継便を待つために途中で一泊する必要はなくなる。車なら4時間、私の下の人間のドライブなら3時間だ」。そう話してくれたシカティック、あれから22年が過ぎようという時に彼は亡くなった。

自分はアレ以来、ザグレブを訪れたことはない。

シカティックを想い、遠藤さんと少し話をした。話題は氷を入れた白ワインと山羊肉のレストラン、遠藤さんによるとそのランチはクロアチアの最高の御もてなしということだった。山のふもとの綺麗な空気と、子供たちの遊ぶための遊具があるレストラン。自分と遠藤さんの記憶は重なっていたが、遠藤さんがシカティックにレストランに連れて行ってもらったのは彼の生まれ故郷スプリトでのこと。自分はザグレブだ。

400キロ以上も離れたスプリトとサグレブ、それでもまるで同じ場所にいたかのようなシカティックのもてなし、四半世紀近くの時を経て、失ってなおブランコ・シカティックの格好良さを知ることとなった。

「皆が私とバーリトゥードで戦うなら、テイクダウンから寝技に持ち込もうとするだろう。だからこそ私が長年培ってきた打撃が生きる。腰を落としてのエルボー、そして10センチメートル・パンチをお見舞いしてやるよ。クリンチの状態やグラウンドで膠着した時に打つ。10センチほど拳を動かすだけでも、相手にダメージを与えることはできるんだよ」(ブランコ・シカティック。1998年6月29日、クロアチア・ザグレブのティガージムにて)

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