【JBJJF】第1回東海柔術選手権を前に、ブルテリア坂本健代表に訊く浜松の柔術の歴史─01─
【写真】まさに日本ブラジリアン柔術の歴史の証人でもある坂本氏(C)KEN SAKAMOTO
14日(日)、静岡県浜松市の浜松市浜北武道館で日本ブラジリアン柔術連盟(JBJJF)主催の『第1回東海柔術選手権』が開催される。
「浜松をブラジリアン柔術のメッカに」を目指して活動するブラジリアン柔術黒帯にして、ブラジリアン柔術&総合格闘技専門店「ブルテリア」を経営している株式会社ムンディネロの坂本健社長が、初めて開催される同選手権の運営をサポートする。
坂本社長に、浜松でのブラジリアン柔術の歴史、同選手権への思いを語ってもらった。坂本社長の言葉──それは浜松の柔術界、そして格闘技の歴史であった。
Text by Takao Matsui
――坂本社長が今回、東海選手権の運営をサポートされると聞きました。
「そうですね。JBJJFから東海選手権を開催したいので、運営を手伝ってほしいと依頼を受けました。具体的にどんな関りを持つのかはこれから打ち合わせていきますが、浜松で盛り上がるのならば喜んで協力をさせていただきます」
――ある意味、JBJJFとは違うヒエラルキーに属しているともいえる浜松のブラジリアン柔術。今は、どんな状況なのでしょうか。
「愛知と状況が似ていますが、昔から浜松は自動車メーカーのスズキやオートバイや楽器で知られるヤマハなどの工場が多いため、ブラジリアンがたくさんいます。その影響で、ブラジリアン柔術の道場が多いですね。今は、みんな仲は良いですが、当時は分裂も多く混沌としていました」
――坂本社長は、どのようなキッカケで柔術と絡むようになったのですか。
「自分は1998年に柔術を始めましたが、それまではまったくの素人でした。自分と同じような年代の多くの柔術家がそうだったと思いますが、UFCの第1回大会で活躍するホイス・グレイシーを見て、興味を持つようになりました。あの細身の体で、自分よりも大きな選手を柔術の技で破って優勝する姿は、とてもカッコ良かったですよね。
ただ当時、浜松には柔術の道場がなかったため、タウンページで柔術か総合格闘技を習えるところを探しました。新格闘術という道場があったのでそこに行ったのですが、始めてみたら普通の空手でした。その後、しばらくするとその空手道場を間借りして毎週日曜にブラジリアン柔術のクラスが始まることになり、それに参加するようになったんです」
――誰に柔術を教わったのですか
「ホシャ先生です」
――ホシャ柔術でしたか!
「はい、しばらくお世話になりました。始めた頃は、日本人は自分ともう一人くらいしかいませんでした。あとはブラジル人でしたが、当時には珍しい青帯や紫帯の選手も少しだけいました。
ちなみにそのもう一人の日本人というのが、現アートジャンキーの加藤(真一郎)さんでした。あめりか米国のマレンコ道場で修業した経験を持つ加藤さんは自分よりも全然強くて、自分の格闘技人生黎明期の兄弟子のような存在でした」
──いやぁ、もう人と格闘技に歴史有り、そのものですね。坂本社長もホイスに憧れた世代、つまり柔術よりバーリトゥードだったわけですね。
「最初は総合格闘技のために寝技を学ぶという感覚で始めましたが、次第に柔術が軸になって行きました……というか、のめり込むようになって(笑)。
そこではクラシカルなテクニックが中心だったため、まだ若かった自分は最先端のテクニックを求めるようになりました。そして道場を離れるようになったんです。当時ブラジルでは、デラヒーバガードとか新しい技術がどんどん出てきていて、自分は最先端のテクニックを習いたいという欲求が強くなっていきました」
――ホシャ柔術を離れてからは、誰に教わったのでしょうか。
「ブラジルから茶帯のジェルソン先生という方が浜松に来て、道場を立ち上げたのでそこに通うようになりました。本場ブラジルの茶帯は、自分たちからすれば神様のような存在で、ジェルソン先生は当時ブラジルの最先端の技術を持ち込んできました。ただ数年でジェルソン先生がブラジルへ帰国してしまったんです。
そして、今度はブラジリアン柔術黒帯4段のエジソン・レアンドロ・ダ・シウバ先生が来日し、別の道場を立ち上げました。一部の選手たちはエジソン先生の道場に流れていきましたが、それ以外の選手は残党で独自に場所を借りて練習をするようになりました」
──ジェルソン先生からエジソン・レアンドロ先生という流れになると、故服部啓さんを思い出さずにはいられません。
「ジェルソン先生が来日してすぐ自分と一緒に同じ意識を持つブラジリアンたちが何人かホシャ柔術からジェルソン柔術に移籍しました。それで、ジェルソン先生のところで練習を始めて何か月かしたころに服部啓さんが入会してきました。
啓さんは人見知りをしない性格だったので、他のブラジリアンともすぐ打ち解け、自分ともすぐに仲良くなりました。人が良かった啓さんは困っているブラジル人達をよく助けていて、ジェルソン柔術でも日本人のマネージャー的な役割を果たすようになりました。ジェルソン柔術が存続している間は啓さんと同じチームメイトとして練習していたのですが、ジェルソンが帰国した後も一人でジェルソン柔術を存続させようと尽力しましたが、続けていくことが困難となり、その後啓さんはエジソン先生からの誘いでエジソン柔術に移籍していきました」
──坂本さんの柔術の歴史と、時間軸が2つになってしまいますが、啓さんとの思いでを続けていただいてもよろしいでしょうか。
「ハイ。啓さんとはしばらくは別々の道場となりましたが、その間も友人としてずっと交流は続いていて、2008年にブルテリアジム(ボンサイ柔術浜松支部)を立ち上げると、啓さんがこちらに移籍してきてまた一緒に練習するようになりました」
──啓さんも坂本社長と同様に浜松のブラジリアン柔術、ブラジリアンとの付き合い、そして格闘技の普及に努められていました。
「格闘技が大好きだった啓さんは、本当に損得勘定抜きにして私生活の全てを格闘技に注いでいました。前述のとおり困っているブラジリアン達の手助けをよくしていて、それがこうじてブラジル人選手のマネージメントをしたりして、浜松近辺のブラジリアン達の顔役的な存在になっていきました。
この辺のブラジル人はなにか困ったことがあると大概、啓さんか自分のところに話をもってきていました。また、2007年にはDEEPの佐伯さんと浜松でプロレス興行をするIKGの伊藤さんとの橋渡しをし、DEEP浜松を立ち上げ、浜松大会のプロモーターとしても活躍してました。
啓さんとは知り合って以降ずっと公私ともに仲良くしていて、当時ブラジル人以外でプライベートで行動する数少ない日本人の一人でした。
ショップの閉店が近くなる19時半頃によく店に現れ、閉店後にそのまま一緒にご飯を食べに行ったり遊びに行ったりしました。何をしていてもいつも格闘技の話になるので、ある日ご飯を食べているときに自分が『格闘技の話になってしまうと仕事になってしまうから別の話をしよう』と言っても気づくといつの間にか格闘技の話になっていました(笑)。
2007年以降毎年9月から10月にかけて、DEEP浜松が開催されることになり、毎年大会の2カ月前ぐらいになると啓さんはブッキングで大変そうでした」
<この項、続く>