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【JBJJF】第1回東海柔術選手権を前に、ブルテリア坂本健代表に訊く浜松&磐田の柔術&ボンサイの歴史─02─

Bonsai【写真】関根秀樹、サトシ、パンクラスやDEEPで活躍中の鈴木琢仁、そして現在は東京在住のマルキーニョスとボンサイは柔術とMMAの両部門で活躍する選手も少なくない──今や国内では珍しいタイプの柔術アカデミーだ (C)KEN SAKAMOTO

14日(日)、静岡県浜松市の浜松市浜北武道館で日本ブラジリアン柔術連盟(JBJJF)主催の『第1回東海柔術選手権』が開催される。

ブラジリアン柔術&総合格闘技専門店「ブルテリア」を経営している株式会社ムンディネロの坂本健社長インタビュー後編。

服部啓さんとの出会いと別れ、ソウザ兄弟との絆。自らもコパ・ブルテリアという大きなトーナメントを主催する坂本社長に引き続き、浜松の格闘技の歴史、ボンサイ柔術の成り立ちを訊いた。
Text by Takao Matsui

<坂本健インタビューPart.01はコチラから>


──浜松の格闘技に無くてはならなかった服部啓さんですが、2011年1月に帰らぬ人となってしまいました。かえすがえす、大切な人を失ってしまいました。

「2009年8月に入った頃、啓さんと全然連絡がつかなくなってしまい、8月下旬頃になりやっと連絡がついたのですが、電話での啓さんの声は虫の息のようでした。

7月下旬から原因不明の高熱にうなされ、8月の最初に病院に行き、その後ずっと入院していて連絡ができなかったと啓さんから聞かされました。この時はまだ原因が分かっておらず、1カ月ぐらいして……最終的に啓さんを死に追いやった血液の癌……悪性リンパ腫にかかっていた事が判明しました。

この時かから、佐伯さんから頼まれて急遽DEEP浜松のブッキングを引き継ぐことになったのですが、その多くが本当に適当でいい加減なブラジリアンだったので、もう大変過ぎて(苦笑)。ただ、この時に本当に啓さんの苦労を思い知らされました。

その後約1年半の闘病生活の末、啓さんはこの世を去りました。お葬式は盛大に行われ、日本中から格闘技関係者達が集まり啓さんの人望の厚さがうかがえましたね。とにかく格闘技への情熱と行動力は凄かったです。それを表すように啓さんの墓には『格闘技を愛する男、ここに眠る』と刻まれています」

──啓さんは浜松の格闘技界、柔術界の皆の心にずっと残っています。ここで時間の軸を坂本社長に戻させていただくと、啓さんはレアンドロ先生の道場には移らず、自分たちで練習していたのですね。

「ハイ。先生がいない中で練習しているため、正しい技術を学ぶことができませんでした。その後、自分の知り合いが、ちょうど来日したばかりだったボンサイ柔術の長男マウリシオ・ソウザ先生を紹介してくれて、その時の話し合いにより特別レッスンを開いてもらうことになったんです」

――ボンサイ柔術ジャパンの始まりですね。

「当時、ジェルソンの残党の中には体が大きく強面のブラジリアンも多く在籍していたこともあり、マウリシオ先生がレッスンしている横で、何人かのメンバーが力量をはかるように横目で指導を見ながら、自分たちの練習を別にしていました」

――険悪な空気に満ちていたと。

「でもスパーリングになると、それまで別に練習していた残党組も加わってきて、マウリシオ先生がみんなをボコボコにしました。先生が次から次へと一本を極めまくり、それで残党組がみんなマウリシオ先生を認めて師と仰ぐようになったんです」

――それは痛快ですね!

「2004年3月くらいのことです。翌4月に道場をつくって、マウリシオ先生に指導をしてもらえるように環境を整えました」

――坂本社長が、そんなに素早く道場を開設したわけですか。

「あくまでも自分はサポートで、環境を整えただけです。すでに2002年に開設したショップ(ブラジリアン柔術&総合格闘技専門店「ブルテリア」)が軌道に乗っていたので、それも背景にありました」

――ブルテリアを開設したのは、なぜだったのですか。

「もともと自分は、建築資材を運ぶ運送業を自営業で行っていたんですが、この業界が下火になるタイミングだったので悩んでいたんです。選手としても壁に当たり、こちらも悩むところではありました。

そんな時、練習仲間がブラジルへ一時帰国して日本に戻ってきたことがあったんですが、現地から何着か道着を仕入れてきて、それを買いました。当時ブラジリアン柔術着は入手が難しく、浜松にブラジル雑貨店が多くあったのですが、そこでは3~4万円くらいで売られていました。

その知り合いが持ち込んだクルーガンスの柔術着を2万円で売ってもらい、それがショップ立ち上げのヒントとなりました。そして運送業をたたみ、ショップ立ち上げの準備をし、ネットと店舗の両方で道着の輸入販売業をスタートしたんです」

――2002年だとインターネットは、そこまで普及していなかったと思いますし、ましてや販売は決済も含めて苦労されたことでしょう。それが軌道に乗っている中で、ボンサイ柔術ジャパンを立ち上げることになったわけですね。

「ボンサイ柔術ジャパンがオープンしてすぐにクレベル・コイケ選手も入門しました。その時まだ14歳で生意気盛りでした。当時マウリシオ先生とクレベルは同じ派遣の仕事をしていて、たまたま送迎バスで一緒の時があったようです。

その時にクレベル選手が、マウリシオ先生をからかうような行動をとっていたようです。その後のレッスンで、クレベル選手がマウリシオ先生にスパーリングでボコボコにされて忠誠を誓うようになりました(笑)」

――いやぁ、素晴らしい。黎明期の話は、面白いですね。

「マウリシオ先生が、初期のボンサイ柔術ジャパンをまとめていった感じですね。そして2005年にマルキーニョス・ソウザ先生が短期ビザで来日して顔合わせをし、その翌年に就労ビザを取得して指導に加わりました。さらに2007年には、ホベルト・サトシ・ソウザ選手も加わりました」

――いよいよサトシ選手の登場ですね。

「18歳になったばかりの頃で、まだ紫帯でした。実力が飛び抜けていて、こちらの当時強かったメンバーが全員やられてしまいました」

――関根“シュレック”秀樹選手は、いつ入門したのですか。

「2008年9月にブルテリア直営のジムをプレオープンし、本オープンした時でしたから2008年の10月です。あの大きな体でスーツにサングラス姿で道場に現われたんです」

――それは怖いですね(笑)。道場破りと思われても不思議ではありません。

「ええ(笑)。完全に堅気では無い方が来たと思いました。でも、アウトローなブラジリアンをまとめたマウリシオ先生がいるからなんとかなるだろうと思っていました。しかし関根さんと話をしてみたところ、とても礼儀正しく、職業も反対側(当時マル暴の警察官)の人でした(笑)」

――アハハハハ。いやぁ、本当に興味が尽きません。そうして柔術の糸が紡がれて、今に続いているわけですね。

「昔からやっているメンバーがだんだんと歳をとって親になって行き、子どもに習わせるようになったせいか、子どもがどんどん増えています。また、それとは別にお子さんを通わせているうちに親もはまって始めるというような逆のパターンも見かけるようになりました」

――浜松の柔術は、今も活気があるようですね。

「全然、まだまだこれからです。10年前、何かのインタビューで『浜松を柔術のメッカにしたい』と話したことがあったのですが、それはまだ達成できていないので、ぜひいつか成し遂げたいと思っています。そして今回、協力をさせていただく東海選手権が、長く続けられるように自分もできる限りの協力をしていきます」

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