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【JBJJF】中国選手権を支える地域格闘技普及の求道者・山本陽一「連盟のちゃんとした大会をきっちり」

Secondout【写真】セコンドアウト柔術部。白帯や青帯の練習生の大切さを山本代表は語っている (C)YOICHI YAMAMOTO

23日(日)、岡山県の岡山武道館で日本ブラジリアン柔術連盟(JBJJF)主催「第9回中国柔術選手権」が開催される。

同大会の運営を陰で支えているのが、セコンドアウトの山本陽一代表だ。プロ修斗公式戦=闘裸男のプロモーターであり、アマチュア修斗のオーガナイザーでもある山本代表に、今大会の見どころや中国柔術選手権に携わるきっかけ、そして7月に西日本を襲った豪雨災害の被害状況などを訊いた。
Text by Tsubasa Ito


Yoichi Yamamoto――山本代表はセコンドアウトで指導を行う傍ら、プロ修斗、アマチュア修斗、柔術大会の主宰をされています。まず格闘技に携わるようになったきっかけを教えてください。

「小中高と、柔道とか剣道はやっていました。大学に入って仲間から空手部をつくってくれと言われたので立ち上げて、僕が副部長になったんです。社会人になってからは、少林寺拳法をやりました。

その後に大きな病気をしたんですけど、パンクラスとか修斗のビデオをずっと見ていて、元気になったらやりたいなと思っていました。治ってからサークルをつくったんですけど、岡山に佐藤ルミナさんが来られたのでセミナーを受けて、修斗のジムを立ち上げたんです」

――サークルを立ち上げたのは2000年ですね。

「ただ、あまりにも人が集まらないので何かイベントをやったら人がくるんじゃないかという考えから、その2年後に始めたのが闘裸男だったんです」

――プロモーターデビューですね。柔術はどこで学ばれたのでしょうか。

「ルミナさんが柔術の黒帯に勝ったことがあったじゃないですか。そこから柔術も学ぼうということで、米子に柔術チームをつくった方から教えてもらいました。その方がアマチュア修斗をやるようになって僕が出入りするようになり、仲良くなったんです。

ただ、今僕は一応黒帯ではあるんですけど、柔術の試合に出たことは一度もないんですよ」

――柔術にはマスター部門もありますから、ご自身が出場したい気持ちはないですか。

「めちゃめちゃあります。ただ、試合をする準備ができないんですよね。仕事が終わってうちに帰って道場を開けて、興行の準備、アマチュアの大会の準備もあるので。昔は睡眠時間を削ったりして夜中まで何とかやっていたんですけど、今はお酒を飲むと寝ちゃうんですよ(笑)。僕は今50歳なんですけど、40も半ばを過ぎるともうダメですね」

――普段はどのようなお仕事をされているのですか。

「プロパンガスの卸売りの会社の営業マンです。岡山には水島という日本でも有数のコンビナート地帯があるんですけど、そこにうちの会社の船が着いて生成とかをしています。

僕の住んでいるところは県北の山沿いなのですが、県南の倉敷市……その海沿いにある真備町にもうちの営業所があって、7月の豪雨災害で大きな被害を受けて一回なくなってしまったんです」

――真備町はニュースでも大きく取り上げられていました。

「娘が小学校の教員をしているんですけど、学校までたどり着けなくて3日ほど家にいました。僕は仕事で農村とか山のほうとか家々を車で回りますが、通れない道もあったりしました。報道されないだけで、津山市の皆さんも困っていらっしゃるということですよね」

――セコンドアウトに影響はありませんでしたか。

「それは大丈夫でした。子どもさんとか来られない人もいましたけど、幸いなことに浸水とかはなかったですね」

――災害から約2ヵ月経過しましたが、現在はどのような状況なのでしょうか。

「まだ住宅街に青いビニールシートがかけてあったりするんですよ。営業をまわらせてもらっても、この道はまだ通れないかとか、あそこのおばあちゃんの家にはまだ行けないな、とか。あとは、雨が降ったら早めに避難勧告が出るようになりました」

――なるほど。まだ色々と不便なことが残っている状況なのですね。そのようななかで中国柔術選手権の開催が迫ってきました。

「今年が9回目の開催ですが、僕も1回目から関係させてもらっています。僕自身は修斗でアマチュア大会とかプロ興行を頻繁にやっている人という感じの印象だったと思うんですけど、浜島(邦明JBJJF理事)さんからお手伝いしてくれませんかとご連絡をいただいたのが最初でした。

どこの会場がアクセスしやすいとか、どういう柔術のチームがあるのかとかは、地元の人間でなければ分からなかったと思うので。

話が横道に逸れてしまうのですけど、5、6年前に中国選手権をやっても人が集まらなくて、盛り上がらない時期があったんです。参加者も20、30人くらいしかいなくて、朝に開始してもお昼には終わってしまうような状況で。

予算的なことで止めざるを得ないかもという相談を受けたんですけど、ずっと続けてきたし、赤字が出るんだったら僕が被りますから、やってくださいとお願いしたんです。その時は各道場に電話をかけて、一生懸命営業しました。その年、何人集まったと思います?」

――倍の60人くらいですか。

「今でも忘れないです、140人来たんですよ。自分は赤を覚悟していたんですけど、中国四国の道場の方々が協力してくれて、選手を出してくれたんです」

――それは凄いですね。

「その結果どうなったかというと、朝の9時から17時までしか会場を取っていなかったので、時間が足りなくなってしまったんです。マットが1面しかなくて、どう計算しても終わらないんですよ(苦笑)。

17時以降は古武道や合気道が入っていたので、先生のお電話番号やご住所を聞いて菓子折りを持っていって、『申し訳ないのですが、時間を譲ってください』とお願いして、何とか20時まで確保できたんです。次の年からは岡山武道館に場所を移して、4面でやるようになりました」

――そこまで開催にこだわった理由は?

「もちろん柔術が好きだからというのもありますし、地方って放っておいたら変なものが広まってしまうんです。今は地下格闘技と言いますけど、出始めた2000年代初頭は草格闘技と言っていました。

見様見まねでパウンドを打って、ドクターもロクにいないという変な大会が地方でいっぱい出てきたんです。だからこそ、連盟のちゃんとした大会をきっちりやっていかないと、良い形で格闘技は広まらないなという危機感がありました」

――そのような想いがあって、中国選手権は連盟の大会として危機を乗り越えて継続してきたのですね。ところで今年の中国柔術選手権の見どころを教えていただけますか。

「開催地が岡山なので、四国はもちろん山陰地方や大阪、九州や広島、山口からも人が集まりやすいですよね。参加人数自体はそんなに多くないですけど、アクセスしやすい条件が揃っているので、色々な地域から集まるのが特色じゃないかなと思います。

去年は関根“シュレック”秀樹選手、その前は杉江アマゾン大輔選手が試合をされて、やっぱり盛り上がりましたね。ただ、今年は関西選手権と四国選手権の日程が近いことに加えて災害があったので、ちょっと集まりは良くないですけどね」

――7月の豪雨災害に加えて、関西でも先日の台風被害が大きかったですから、その影響があるのですね。

「やっぱり倉敷のチームからはエントリーしていないですよね。大阪も例年はもっと多かったんですけど、今回は少なめです」

――「闘裸男 寝試合」も合同開催されます。

「闘裸男の寝試合のルールは、かなり前に創ったものなんです。2002年に本当はパウンドありの興行をやろうと思っていたんですけど、会場から殴ったりするのはダメだと急に言われて、急遽アマチュア修斗の打撃の部分を取ってグラップリングだけにしたんです。そこが始まりですね。

ただ、アマチュア修斗のルールがベースになっているので、ノーギとは違ってヒールホールドはありなんです」

――そこもまた人、大会に歴史有りということが伝わってきます。では中国柔術選手権の今後の展望を聞かせてください。

「可能性を感じられる大会です。毎回、白帯の人がたくさん出るんですよ。黒帯とか茶帯の人がたくさん出る大会は東京とか大都市だったらあるんでしょうけど、白帯はまだまだ伸びしろがあるということですから、それが嬉しいです。今後はキッズも開催できれば、さらに柔術の将来を感じられるような大会になっていくと思います」

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