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【Special】格闘技のためのLIFE 細川顕 「柔術家かなら自分の道場を出して生きていく」

Akira Hosokawa【写真】10月にはGround Impactで五味隆典を破った細川顕。柔術家人生の第2章が始まった(C)MMAPLANET

2015年7月、カルペディエム・ホープが岐阜にオープンした。主宰する杉江(白木)大輔の傍らにはALIVE時代からの後輩、細川顕が寄り添っている。日本屈指のライト級柔術家は、日本有数の大会社の関連企業でエンジニアという職を持っていた。

そんな細川に独立の経緯、その意志。そして独立を経て──歩んでいく柔術家人生について尋ねた。

――2015年、カルペディエム・ホープへ移るという細川選手にとって柔術家人生だけでなく、人生の転機となった1年になりました。

「やろうと決めていたのは2011年とか、杉江さんが競輪選手になることを諦めた時だったので、随分と前の話なんです。でも、すぐにってことではなく色々とあったので間を置こうという感じでした。

その間も僕は僕で力をつけようという目標もありましたし、『道場をやろう』と思っていきなりできるわけじゃない。でも杉江さんが動けないなら、自分1人で独立することも頭にはありました」

――つまりは20代の頃からいずれは、安定した仕事を辞めて道場を開くつもりでいたということですか。

「それはありました。というか、北海道からこっちに来てALIVEに入った時から『どんな風な人生になるかな。北海道で道場を開くにも良いな』とはうっすらと考えていましたからね(微笑)。ただ、当時は黒帯になれると思っていなかったです。紫帯とかで指導していても普通の時代だったので」

──大学卒業後、理系の大学を卒業し、エンジニアとして日本を代表する企業の関連会社に就職した。そのまま定年まで働くということは考えなかったですか。

「安泰といえば安泰ですけど……、はなから一生お世話になるつもりではなかったです。もう黒帯になろうと思っていましたし、柔術家なら自分の道場を出して生きていく──それぐらいの気持ちを心のどこかに持ってないと、黒帯を巻くことなんてできないんじゃないでしょうか」

──競技柔術で結果を残して、アダルトの間に黒帯になる選手は柔術中心の生活をしている場合も少なくないのではないでしょうか。しかも細川選手は昨年11月に入籍し、今年になって式も挙げられました。その直後の退職となります。

「うちは付き合いが長くて、7年ぐらい一緒だったので僕が道場を出したいということは知っていました。だから、家内の方はすんなり分かってくれました(笑)」

──長年在籍したALIVEの支部ではなく、独立という形を取りました。

「ALIVEのことは大好きだし、本当にお世話になったという感謝の気持ちばかりです。この件について、どのように思われるかは人それぞれだと思いますが、社長(鈴木陽一ALIVE代表)と飯とか食っているときとか、いつか自分の道場をやりたいということは口にしていましたし。

正直、ALIVEがMMAと柔術に別れれば、柔術は俺がやりたい──という気持ちがなかったわけではないです。ただ、杉江さんという存在もあったし。と同時に杉江さんが離れていた時は、自分が引っ張っていたという気持ちもありました」

──杉江さんと道場をやる。スタート時点からインストラクターとして、杉江さんの経営する道場で働くという意識だったのですか。

「そうですね。資金的には杉江さん、自分はそこでインストラクターになるという感覚でした」

──条件面の話になると、一般企業と柔術のインストラクターでは違いが生じることはないですか。

「僕の場合はほぼ同等の条件で働かせてもらっています。ただ、それは結果的にそうなったことで、最初に名古屋の方で物件を探していた頃は、そこまで深く見通していなかったです。ただし、補えない部分のことは他の道場でクラスを持つという形になるようには考えていました。実際、今も続けています」

──カルペディアム・ホープを開いた杉江さんは、昨年の秋に長女の優希ちゃんの病が発覚し、今年の1月に拡張型心筋症で亡くなるということがありました。そんな不幸を乗り越えてジムを開いたという経緯があります。結果として、日本最大級の柔術ジムになった。逆にあのロケーション、そして規模になったことでプレッシャーはなかったですか。

「回りが田圃ですけどね。畦道を通う(笑)。朝は凄く気持ちが良いですよ。帰りは真っ暗ですけど。どうしても場所柄、車が必要で子供やお父さん年代の人の入門が多くて、若者が少ないというのが現状です。でも規模的には日本一です。そこは胆に銘じています」

<この項、続く>

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