【A Memorial Writing】追悼文、MMA原体験を思い出させてくれた田邊敦史さんを偲んで
【写真】Power Gateのデータがなぜか……見当たらず。Rising On第2回大会からコメインのライト級選手権試合で試合前にチャンピオン柴博からベルトを受け取る田邊さん(C)MMAPLANET
選手、友人、家族、仕事仲間との生活のなかで、ちょっとした一言が自分の記者生活の指針になることがある。それは数少ない格闘技のファンの人との触れ合いのなかでも、あった。
Text by Manabu Takashima
2010年4月11日、2人のMMAのファン──おそらくは大学生が20代前半の若者との会話が、まさにその一つだ。
大阪府高石市のたかいし市民文化会館アプラホールでRising Onの第2回大会の取材をし、新大阪へ向かう南海電車の列車内でのことだ。実は東京に戻るために購入していた新幹線の時間が迫っていることもあり、大会のメイン=Rising Onフェザー級選手権試合、金山康宏✕尾崎大海戦を撮影せずに会場を離れた。
駅のすぐ隣にある高石駅のプラットフォームで電車を待っていると、その二人の「あっという間やったな」という声が聞こえてきた。大阪とはいえ、このあたりになると列車は15分に1本ぐらいの間隔で、しかも日曜の夜で本数はより少なかったのかもしれない。自分が電車の到着を待っている間にイベントは終了し、ファンが同じプラットフォームにやってきたのだ。
確か難波行きの準急に乗ったと記憶しているが、その「あっという間」の試合結果が知りたくて「スミマセン。新幹線の都合でメインを見ずに会場を出たのですが、試合結果を教えてもらえないでしょうか」と自分の方から彼らに話しかけた。1分51秒で金山選手が尾崎選手をRNCで下したことを教えてくれた青年が、「高島さんですよね。UFCの記事を書いている。こんな小さい大会も取材されているんですか」と尋ねてきた。
嘘偽りなく、「UFCもRising OnもMMAなので。自分は取材したい大会は取材します。イベントの規模は関係ないです」と返答した。その時、彼の目が輝いた──ように見えた。そして「恰好えぇわぁ。これからも記事、楽しみにしています」という言葉が返ってきた。
この一言、自分がやっていることが恰好えぇのかどうかは知らないが、恰好良いと言われればそりゃあ嬉しい(笑)。何よりも当時、北米プッシュの取材姿勢に国内の選手やプロモーションから批判を受けた見でもあり、記事を楽しみにしてくれるという言葉が何よりも嬉しかった。メジャーシーンだけを取材する記者や媒体は多いし、その在り方を否定はしない。自分の好きな自動車レースもそうだ。もちろん、担当という制度があるわけだが、F1ならF1だけ。そのF1に駆け上がろうとするボーイズたちがヨーロッパに拠点を移し、F3での奮闘ぶりを追っていた日本人フリーランスの記者がいた。その後、ボーイズの1人がF1に到達しても、彼が書くF1の記事を目にする機会はほとんどなかった。
自分はMMAの専門記者だ。グラップリング、武術を追うことはあっても球技など他のスポーツを追うことはない専門家で、専門メディアを生業としている。専門家なら、上の舞台だけ追うようなことはしたくなかった。また下の舞台だけに特化する記者生活も送りたくなかった。同じ目線で、両方を取材していたかった。
今でいうフィーダーショー、ローカルショーがUFCに即通じていた1990年代終盤から2005年のTUF前という時代に、UFCだけでなくSuper Brawl、Hook’N Shoot、Extreme Fightingなどを取材する機会が多かった。UFCで戦う選手だけでなく、そこまで這い上がろうという名もなき選手たちを追うことに遣り甲斐を感じていた。と同時に、その選手たちがUFCにステップしたあとも活躍を追いたいと思っていた。
大会の規模ではない。追うのは選手だ。そんな想いを持っていたから、彼の言葉が嬉しかった。そして、「このまま、やって行こう」と記者生活の指針とさせてもらった。
もちろん、全ての地方都市のイベントを回ることはできない。「海外取材は赤字ばかり。国内は赤字になるような仕事はしないで」と、自分の仕事に口出しをすることはほぼない家内からも、そこは指摘されていた。それは今も変わらない。ただし、取材ができる環境創りだけは怠ることなく、地方大会でも取材をできる努力は続けてきたつもりだ。地方大会は予算の都合で取材はできず、首都圏のイベントだけを偉そうに取材するようなことはしたくなかった。
それでも今も昔も制限はある。結果、自分としては首都圏を拠点とするプロモーションと縦のつながりがある大会でなく、独立した組織でその地に根付こうとするイベントを優先するようになった。首都圏の大会及び、縦の関係にあるイベントは自分でなくて伝え手がいる──からだった。加えていえば、2010年は国内トップの総合格闘技イベントはDREAMと戦極の時代で──修斗、パンクラス、DEEPという主要プロモーションはリングを使用していた。
UFC、北米で勝つにはケージでの実戦経験は欠かせないという考えがあったので、国内での取材は首都圏でもGrachanや後のGrandslamらケージのインディペンデント(というと嫌がる人が多いから、最近は使用を避けてきたが)なイベントを追うことに力を入れていた。
地方のインディープロモーションで、ケージ使用。その2つをRising Onは備えていた。ケージ使用にこだわった理由は上記の通りだが、地方の独立イベントを追いたいと思うきっかけをくれたのが、Rising Onの前身Power Gateだった。
Power Gateのプロモーター田邊敦史氏は、それ以前に今や実業家といっても過言でない池本誠知氏とクラブファイト=レッドゾーンをプロモートした経験を持っていた。レッドゾーンは首都圏に基盤を置く既存のプロモーションと一線を画し、手作り感と問題点も満載な手作りイベントだったという。その後、両者は袂を分かち、当時は格闘技イベントの鬼門と言われた大阪、そして京都でPower Gateを続けた田邊さんは「修斗、パンクラス、DEEPの隙間産業的にやっています」と自らの大会を表現していた。
3分✕3R、パウンド&クローズドガード禁止、10カウントシステムと2ノックダウン制というルールは、UFCがヒエラルキーの頂点に立ったMMA界にあって完全な異質だった。今ならモディファイド・ルールとカテゴライズされ、MMA戦績に含まれないかもしれない。レベル的にも従来の大会に出場できない選手達が戦う場所という風にも聞かされていた。
6角形のリングを使うようになっていたこともあり、興味を持った自分は2008年2月3日に京都のKBSホールで開かれたPower Gateにとって19度目のイベントを取材させてもらった。そこで見た世界は、自分がこの仕事に就いたころの原体験を思い起こさせるものだった。
自分が記者生活を始めた1995年の日本の格闘技界はUFCとグレイシーの洗礼をモロに受けつつも、パウンド有りのMMAに相当する試合数は非常に少なく、キックやムエタイ、空手とは比較にならなかった。
そのなかで自分を育ててくれた格闘技通信はUFCに通じる道というべき打撃と投げ、そして関節技が使われる競技の取材を地方都市でも、積極的に行っていた。いや打撃と投げ、関節技の全ての要素がなくても2つの要素が交わっていれば九州、関西、名古屋、東北とフリーのペイペイ記者を現地に向かわせてくれた。
それらMMAになる以前の総合的な格闘競技会の会場では仕事を持ち、夜に稽古する格闘技愛好家がまるで洗練されていないガツガツとした戦いを繰り広げていた。その先に世界の頂点など当然見ていないし、世界の頂点が何かも分からなかった。あの頃の空気が、Power Gateにあった。日頃の練習の成果をパウンドのないMMAに近いルールの試合を六角形のリング上で繰り広げる。そんな試合会場にはウォークアウトソングやラウンドガールが存在する。そこには等身大の格闘技が存在していた。
PRIDEが無くなり、日本のMMAファイターが強さを証明するのは北米しかない。UFCで勝つには、PRIDEの残り香を漂わせる日本の総合格闘技に浸りきっていると手遅れになる。そのためにも世界を知ること。UFC、WEC、Strikeforce, Elite FC等々、強さが絶対で他の価値観に目をやる余裕がなかった自分に、あの頃の空気を思いさせてくれたのがPower Gateだった。
以来、自分は世界のトップを追うと同時に、アマの参加型競技会以外にプロを名乗る興行で戦う選手にもそれぞれの格闘技、MMAがあって良いと思えるようになった。MMAが成立する以前の総合的な格闘競技の時代をPower Gateの取材によって思い出すことができたからだ。
ただし、UFCで戦いたいと口にしながら、発言にそぐわない行動が見られると白けるということは明記しておきたい。
閑話休題。
人前で、負ければ全てが自分の責任という身も震えるような場に出て行って戦う。日ごろの練習の成果を友人や家族、仕事仲間の前で披露する。そのような場がなければ、世界の頂点で億という金額を稼ぐ場も存在しない。安全性を考慮した大会運営の下、MMAが行われるのであれば経済の論理も、イベントの規模の大小も関係ない。
勝利した選手やチームの皆が見せる笑顔は、UFCもPower Gateも同じだ。
この取材をきっかけに連絡を取り合うようになった田邊さんは、選手の実力がパウンドを使うレベルに達してきたと判断しパウンドを解禁する。すると修斗系の選手らが流入し、生え抜きファイターが勝てなくなってきた。その一方でユニファイドMMAの波が一気に日本の格闘技界に押し寄せているなかで、リングの大会が続く関西にあってケージの導入に踏み切った。結果、29度のイベント開催実績を残し、Power GateはRising Onに名を変え、MMAを標ぼうするようになる。格闘技は強さを争う場。であればUFCを無視できない。そんな空気を田邊さんは感じ取り、ケージとリングは別物と考えていた。
それでも高石のアプラホールという会場にケージを持ち込んで行われたRising ONは、十分にPower Gateの良さが感じられるユニファイドMMAルールと適用した大会だった。緩いという表現は違う。空気が温い、というのも違う。そう、空気が温かいMMA大会。田邊さんが言っていた「主役はお客さんです」という温かさだ。自分が今も名古屋でHEAT、福岡でBloom FC、青森でGFGという大会を追っているのは、あの空気を吸いたいからかもしれない。
Power Gate取材から17年が過ぎ、Rising On取材から15年を迎えようという2025年3月──田邊さんが、亡くなったという報を受けた。
坊主頭で巨漢、静かな関西弁。格闘技とは距離を取った田邊さんと自分の間のやりとりも、ほぼなくなって何年も経っていた。それが──去年の8月にキム・スーチョルの動画を制作した際に、彼のプロデビュー戦だったRising Onでの試合写真の使用許可をもらうために田邊さんに連絡を取った。その時、近況報告を少しさせてもらい、自分の長女が大学を卒業したことに田邊さんは驚き、「夫婦円満ですか」と笑ってくれた。それから3度、自分は大阪に行ったのに「大阪にはちょくちょく行くので、食事でもしましょう」という約束は果たせなかった。
田邊さん、あの世でMMA好きは同じだったけどUWFに関しては意見が合わない平行線だった話の続きをしようよ。その日が訪れるまで、俺はずっと夫婦円満でいるし。あのRising Onを観戦していたファンが与えてくれた指針がぶれることなく、MMA記者生活を全うするから。