【Interview】ジェフ・カーラン(02)「マーシャルアーツ・スクールを」
【写真】300人の練習生を持つというチーム・カーランMMA。応接セットの横に柔術マット、その横にボクシングリング、さらにケージマットとフィットネス機器が揃っている――いわゆるメガジムだ (C)MMAPLANET
第1回UFCが開催されてから来月で20年、1997年から16年に渡りMMAを戦ってきたジェフ・カーランが現役から退いた。
米国軽量級のパイオニアのインタビュー第2弾。シカゴから北西へ約80キロ。郊外の街で19歳の時にアカデミーを開いたジェフは、軽量級ファイターとしてだけでなく、MMAジムのオーナーとしてもパイオニアの一人だった。そんな彼はジム経営を成り立たすため、ファイトジムではなくマーシャルアーツ・スクールという形を選択した。
<ジェフ・カーラン インタビュー、Part.01はコチラから>
※ここで紹介したジェフ・カーランが指導するチーム・カーランMMAや、UFC世界ライト級王者アンソニー・ペティスの所属するルーファススポートの模様が「Fight&Life 格闘紀行=米国中西部編」として掲載されているFight&Life Vol.39は現在、全国の書店で絶賛発売中です。
──一番小さな参加選手が優勝した。そこもジェフにとっては、柔術にハマる要因になったのではないですか。
「俺にもできるって思ったよ、確かに。ただ、まだ高校生だったし、トレーニング環境も整っていなかったから柔術の練習しかしていなかった。何年も経ってからキックボクシングを始め、そのあとでモンテの大会のチラシを見つけたんだ。3試合とも勝って、プロへの切符を手に入れたよ」
──ちなみに階級は?
「165ポンドだった。僕の体重は145ポンドぐらい。21歳だったかな……、まだガキだった。バーで試合をして勝った。で、もう止められなくなってしまったんだ(笑)」
──今、UFCのプレリミ出場選手ですらファイトマネーへの不満を口にしますが、当時は今と比べることが意味もない状況だったと推測できます。そのような経済状況で、なぜ試合を続けることができたのですか。
「お金のために戦っていたわけじゃないしね。昼間は働いて、自分のスクールをオープンして夜は指導するようにしていた。1日中、働いていたことになる。最初のMMAに出る半年ほど前に、もうジムを開いていたんだ。ここの柔術マットの半分ぐらいの小さなスペースだった。柔術と自分の知る限りのキックボクシングを指導した。お金もほとんど取っていなかった。また青帯だったしね。
ホント、生徒の数も少なかったし、昼間の仕事を辞めるわけにはいかなかった。床にカーペットを敷く、それが僕の家の仕事だった。そう、フロワー・ガイだったんだ。でも、ジムを寝かしておくのもどうかなって思い、仕事を辞めて昼間もクラスを設けることにした。その頃になると、MMAも階級制度が設けられるようになりライト級の試合が始まった。
完璧だったよ。減量の必要もなかったし。何といっても、このスポーツで最高の人間、モンテ・コックスがマネージャーだったことが大きい。モンテはあらゆる場所で僕に試合の機会を与えてくれた。彼だけが、MMAと僕を結ぶ接点だったんだ」
──2005年、TUFのスタートによるUFC人気の爆発まで、このシカゴ郊外でのMMA人気はどの程度だったのでしょうか。
「全くなかった。この地域で、僕が一番最初に柔術とタイ・ボクシングのスクールを創った。もちろん、シカゴでは何人かがジムを開いていたけど、クリスタルレイクでは僕が一番早かった。指導者が練習生よりも若い、そんなジムだったよ。なかには25年や30年のマーシャルアーツの経験も持つ人間が教わりに来ていた。子供の頃に僕に空手を教えてくれていた人達も含まれていたんだ。彼らは皆、UFCを見て柔術を習いたくなったんだけど、まさか僕が指導できるとは露ほどにも思っていなかったみたいだった(笑)。
僕はまだ19歳だったけど、誰も知らない技術を持っていた。誰だろうがジムの扉を開けやってくると、これが柔術で、僕が練習してきたもの。あなたが習えるモノだって話をしてから、月謝とスケジュールを説明した。そして、マットへ移動して、実践するんだ。誰もがなぜ、こんなことになるって信じられない顔をしていた。僕がまだ19歳のガキだったことも大きいだろうね(笑)。50歳で空手十段の人が、何もできない。そんなことが幾度となくあった。でも、ジム経営は楽じゃなかったよ」
──MMAがビジネスになると思えるようになったのはいつぐらいですか。
「僕と同じペドロ・サワーの黒帯になったフランク・クーチが、ヴァージニア・ビーチでジムの多角経営に成功していた。彼は柔術プログラムとムエタイ・プログラムをテコンドーの道場で始めるようになった。彼は指導だけでなく、マーケティングとマネージメントに長じていた。彼のジムを訪れると、サンドバッグを初めジムに必要な機器が揃っている。リングもあって、自分が求める全てがそこにはあったんだ。ついでにいうなら、彼はナイスな車とナイスな家を持っていたよ(笑)。
フランクは僕に『ファイト・スクールじゃない。マーシャルアーツ・スクールを創るんだ』って教えてくれた。以来、ファイターが2人や3人が集まってはいても、大きなプロ集団を作ろうというビジョンを持たずに、プロ選手もいるマーシャルアーツ・スクールの経営を心掛けてきたんだ。
今やUFC人気が爆発し、ファイトに興味を持ち、僕のことを知る人も増えてきた。そうなると、『もし、試合に出たいなら、ここに来ると良い』という誘い文句も悪いモンじゃなくなった。それ以前はファイトという言葉を使うことはなかったんだ。彼らの両親が怖がるしね。でも、今やMMAはメインストリームにある。誰もファイトという単語を使っても怖がらない。つまりはファミリー・マーシャルアーツ・スクール・ウィズ・ファイティングといっても構わなくなった。ただし、ただ単にプロファイターの養成を目指してジムを開いても、この街では絶対に生き残ることはできない」
──今もフィットネス感覚の生徒の数が、プロ志望者よりも多いですか。
「今、300人ほど練習生がいて、ファイターは25人だけ。一般の生徒は柔術やムエタイを楽しむために練習している。セルフディフェンス、自分に自信を得るために練習している。柔術のトーナメントに出場する生徒は少なくない。チーム・カーランMMAにはボクシング・プログラム、ムエタイ・プログラム、柔術プログラム、そしてMMAチームが存在するんだ。
MMAチームの一員になるには、打撃やレスリングをミックスして柔術の動きも身に付けていないといけない。ジム内でMMAチームに入れるかどうか、クォリファイを設けている。一般の練習生もMMAを見ることは好きだし、ローカルショーに出場するMMAチームのファイターの応援に駆け付ける者も多いよ」
──MMA人気が上昇し、コミッションにも認可されるようになりました。その一方でコミッションのジャッジが、ジェフがベースとする柔術の技術を理解していないままこのスポーツは発展したかのようです。
「ゲームでなく、ファイトなんだ。チーム・カーランでは良いボクサーがいると、一緒に練習して打撃をシャープにする。ハイスクール、いやカレッジでレスリングをやっていれば、柔術が青帯でも構わない。そこから僕らのノウハウでMMAファイターとしてビルドアップする。そのために、まず防御を指導するんだ。サブミッションのディフェンス、パンチの見切り方、ブロック、自分を如何に守るかだ。それらのディフェンスを一体化させから初めて、攻撃を指導することにしている」
<Bio>
Jeff Curran
1977年9月2日、イリノイ州クリスタルレイク出身。
プロ修斗アメリカス・ライト級、APEXフェザー級王座を獲得。
ヒクソン・グレイシー系ペドロ・サワーの黒帯。
MMA戦績34勝16敗1分