この星の格闘技を追いかける

【on this day in】8月01日──2005年

01 03 05【写真】「外掛けが禁止になり、足関節は難しくなった」とジュリオ・セザーは言っていた(C)MMAPLANET

Julio Cesar Pereira
@ブラジル・リオデジャネイロ、ガマフィリョ大学
「『1985年、茶帯だった時にヒクソンの弟子のアルバロ・ホマーロにコパ・バンスポルトの決勝で勝ってから2年後かな、ホビソン・グレイシーから足関節は反則だと告げられた。グレイシーのなかでもヒクソンだけは、レッグロックを禁止にすると柔術は柔道になってしまうと言っていた』。そんなとっておきの話をしてくれたのがジュリオ・セザーだった。柔術家の系譜を辿ると、最終的にはエリオ・グレイシー、カーロス・グレイシー、そしてコンデ・コマに行き着く。それが絶対だと、10年と4カ月前まで信じ切っていた。セザーの柔術の師を辿っていってもグレイシーの姓は出て来ない。モニーウ・サラマォン、オズワルド・ファダ、ルイス・フランサ、そしてコンデ・コマに辿り着く。前田光世がベレンで格闘術を指導したのは、何もグレイシーだけではなかった。グレイシーでない教え子から前田柔術を受け継ぐ者が存在して当然だ。それがルイス・フランサに柔術を教わったファダだった。柔術がほぼリオ限定だった時代、裕福な南リオではグレイシーが、貧しい北の地域=スブービオではファダの弟子たちが柔術を広めた。スブービオ柔術では南の柔術家が嫌悪する足関節が発展していた。セザーはO Rei do Chave-de-Perna=足関節王と呼ばれ、南の柔術家に恐れられていた。彼のシャウジペウニャは黒帯になりホイラーに破られるまで、無敵だった。ただし、足関節で勝つたびに『スブービオ野郎』という悪意に満ちた野次を全身で受け止めなければならなかったセザーは足関節以外の技を磨くようになった。その結晶がホドウフォ・ヴィエイラであり、イゴール・シウバという教え子であることは間違いない。そんなセザーが10年前の今日、内掛けと外掛けのアキレス腱固めを披露してくれた。どちらもトップからで、ガードを割っての仕掛け。白い砂浜と異形の巨岩=風光明媚なリオでなく、くすんだ色の建物が続くスブービオが生んだ怖い仕掛けは、明らかに後者だった」

on this day in──記者生活20年を終えようという当サイト主管・髙島学がいわゆる、今日、何が起こったのか的に過去を振り返るコラム。自ら足を運んだ取材、アンカーとして執筆したレポートから思い出のワンシーンを抜粋してお届けします。

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