【Column】「Berofe Run 02」
【写真】1994年の10カ月は、翌年1月17日の阪神大震災もあり、その後の生き方の指針となってくれた。写真はカナリーで見たカナリー相撲=ルチャ・カナリア
※本コラムは「格闘技ESPN」で隔週連載中の『10K mile Dreamer』2011年4月掲載分に加筆・修正を加えてお届けしております
文・写真/高島学
1993年12月にサラリーマンをやめ、この仕事を始めたのが1995年の1月。あれから17年が過ぎ、今も思うのは第1回UFCとグレイシー柔術がなければ、この業界に足を踏み入れていなかったな……ということ。
極真空手でも、ムエタイでも、K-1でもない。格闘技好きだから、当然、それらの競技にも興味はあったのだが、だからといって遠い世界のように感じていた業界に、足を踏み入れるような後押しにはならなかった。
1994年の2月から、同年10月まで世界を回るなかで、数多くのジムを訪ねた。パリ、ロンドン、アムステルダム、シアトル、もちろんLAやリオデジャネイロ、サンパウロで、UFCやグレイシー柔術が発する熱が、格闘技界を巻き込みつつあることが感じられた。格闘技関係者の多くが、肯定しようが、否定しようが、アルティメット大会を話題にし、グレイシーについて言及した。
パリのペンチャク・シラット道場で知り合ったカンフー・マスター、カナリーで見たルイ・サン・リュウという格闘術の指導者、チャクリキのトム・ハーリック、みな「アルティメットでは、○○な技や××が有効だ」などと論議していた。
オランダでは、実際にUFCに出たレムコ・パドゥールやフレッド・ハマカーとも会え、ウィリアム・ルスカの異種格闘技戦秘話を聞かせてもらえた。米国に渡ると、シアトルではAMCを訪れマット・ヒュームやハル・シマニシさんから、UFCとパンクラスの違いを聞いた。
【写真】当時のグレイシー・アカデミー。今も昔もこのアカデミーは緑が基調だ
サクラメントではケン・シャムロックと、デビュー前のフランクのスパーを目にした。ホイスと少しだけ話すことができ、ホリオンが男子禁制女子だけの護身術クラスに、ガールフレンドの見学を許してくれたトーランスのグレイシー・アカデミー。
そこから車で10分ほど移動した、レドンドビーチにあったRJCマチャド柔術ではヒーガン、ジャンジャック、ジョンがブラジリアン柔術について、懸命に説明してくれた。が、あまりにもベースとなる知識に欠乏していたため、何を言っているのかさっぱり分からなかった。一番印象に残っているのは「リオではジーコの家の近くに住んでいた」というヒーガンの言葉だ。
【写真】プロレス雑誌の写真と『湖とオレンジの木が多い』という一文を頼りに、2時間ほど迷いまくった末、犬の散歩に出ようとしたカール・ゴッチと出会えることができた
タンパで犬の散歩に行くのをやめたカール・ゴッチが1時間ほどU系プロレスに関し、熱い話をしてくれた。日本人の次にロシア人の気持ちが強いと言ったゴッチは、意外にもつながりが強いと思われたプロレスラーを酷評し、船木優治(誠勝)と鈴木みのるを大いに買っていた。ゴッチは「グレイシーは絞め技だけだ。他の関節技がない」と手厳しかった。
サンパウロで、たまたま目にしたフラビオ・ベーリンギ道場で、後にヒクソンの一番弟子であることを知るマルセロ・ベーリングに練習を見せてもらった。それは彼が亡くなる半年前のことだ。
同じくサンパウロでは、知人の友人が通っているというオタービオ・アルメイダ・ジュニオールのアカデミーを訪ねた。日本語の昇段証書があったので何気なく写真に収めたが、それは岡山の六高柔道部出身、三角絞めを考案されたといわれる金光弥一兵衛から、彼の父に送られたものだった。アルメイダ・ジュニオールからは、「ブシドーはフェイクか?」と意味不明のことを聞かれ、必死で武士道について返答したが、最後まで会話は噛み合わないまま、道場を後にした。
後に彼が言っていたブシドーとは、UWFインターの海外でのプログラム名だと知った……。
南米へ行く直前、ワシントンDCから、車で9時間ドライブして、ノースカロライナのシャーロッテで行われたUFCの第3回大会を観戦した。ホイスがキモと戦い、初めてオクタゴンで弱々しい姿を見せ、準決勝開始前にタオル投入、ケン・シャムも負傷で準決勝を辞退し、両者の決着戦は行われなかった。隣の席には、平直行さんが偶然座っており、名選手の解説付きでUFC初観戦を行うという貴重な体験をさせてもらった。
そうそう、LAではブルース・リーと親しかったというジークンドーのダン・イノサント先生に会いたくて、ジムを訪れると、USA修斗の中村頼永さんが指導中で、奥方のヒロミちゃんに、タイガーマスク新日本復帰の裏事情と、その数週間前に日本にデビューしたばかりの、ヒクソン・グレイシーの凄さを正座している足が痺れて立てなくなるほど、たくさん聞かせてもらった。彼らのブックにより、バーリトゥード・ジャパンに出場したヒクソンが開いていた、ウェストLAのピコ通り、車の修理工場の裏手にあった道場も訪れたが、生憎不在だった。
ヒクソン・グレイシーに会うことはできなかったが、この10カ月の放浪は世界を知るきっかけとなり、オランダのボス・ジムで出会った、若林太郎さんから聞いた、八百長抜きの総合格闘技確立への熱い想いが、僕の業界入りを強く後押ししてくれることになった。