【Special】Fight&Life#107。アレッシャンドリ・パントージャ未掲載分「UFCが日本に戻るのに最適の時」
【写真】深く、含蓄のある言葉が多く聞かれたインタビューだった(C)Zuffa/UFC
21日(金)に発売されるFight & Life#107で、昨年12月7日(土・現地時間)に朝倉海を破り、UFC世界フライ級王座防衛を果たしたアレッシャンドリ・パントージャのインタビューが掲載される。
Text by Manabu Takashima
朝倉戦の振り返りと、自身のキャリアの振り返り。さらにUFCフライ級戦線への思い入れと次戦の動向──等々をパントージャは70分に渡り、丁寧に言葉を綴った。しかしながら、誌面に限りがあり全てを紹介することはできなかった。
特に柔術の出会いから、RFAでの米国デビューとATT入りの経緯とパントージャを形成する格闘家人生という部分は──父が家族を捨て、家には母のボーイフレンドが住むようになった。大酒飲みで粗暴な母の新しいパートナーを見て、「大切な人をいかに守れるのか」と思案するパントージャを柔術道場に連れて行ったのは、意外にも母の恋人だったという。
2002年から2005年までオズヴァルド・アウベスの下で柔術を学び、リオの郊外アハイアウ・ド・カボに移り住むと、その地でムエタイに出会い、MMAを戦うように。タタ・ファイトチームから名門ノヴァウニオン所属となり、米国進出への足掛かりを創る──と要約せざるを得なかった。
加えてUFCフライ級で活躍する2人の日本人ファイター評の2点、Fight&Life誌に生かすことができなかったパントージャの声を紹介したい。
僕は16歳だったけど、プロと同じように練習をした
──ケージの中の戦いは人間性が出ると言われます。ファイターが歩んできた人生の結晶だと。ここからはパントージャ選手のファイト&ライフを振り返っていただけないでしょうか。お父さんが家族を捨てて出て行ったという告白をされたこともありましたが、その後もタフな生活があったかと思います。そのなかで、どのように格闘技と出会ったのでしょうか。
「ブラジルの子供たちが厳しい現実から目を背けるときには、サッカーが欠かせないんだ。僕もそうだった……。父親がいなくなった後、母は別の男と生活を始めた。デカい男だったよ。大酒飲みで、粗暴だった……。僕は自分の大切な人をどう守ることができるのかと考えるようになった
──それで柔術を?
「それが、その男が僕を柔術アカデミーに連れて行ってくれたんだ。クルービー・ジ・オズヴァルト・アウベスだった」
──コパカバーナのアパートの一室にあった!!
「その通りだよ。2002年から、あのアカデミーで柔術を習っていた。フレジソン・パイシャオンが代表選手で。まだ僕は子供だったけどね」
──出身地がリオから東に80キロほど離れたアハイアウ・ド・カボと明記されるケースもあり、アハイアウ・ド・カボからリオに出てきたものだと勘違いしていました。
「僕はコパカバーナで育ち、15歳の時にアハイアウ・ド・カボに引っ越したんだ。正直、コパカバーナのアヴェニーダ・アトランチカでは、色々と問題を起こしていたよ(苦笑)。でも、近所の人達から色々なことを教わることができたし、今となってはコパカバーナで育って良かったと思っている。
もちろんオズヴァルド・アウベスに柔術を習ったことが、その大部分だけどね。オズヴァルド・アウベスとの出会いで、人生が変わった。同時に母のボーイフレンドが僕らを連れてアハイアウ・ド・カボに移り住んだことも、僕の人生の転機になったんだ」
──というと?
「ムエタイのマスターに、アハイアウ・ド・カボで出会うことができた。人口3万人の小さな街で、あんな出会いがあるなんて運命だよ。彼は僕を自宅に招いて、1日に2度ムエタイのトレーニングをする日々が始まったんだ。ムンド・ダ・ルタという小さな、本当に小さなジムだった。練習も少人数だった。僕は16歳だったけど、プロと同じように練習をした。そして20試合を戦い、負けたことはなかった」
──!
「だから皆、僕の打撃を軽く見ているって言ったんだよ(笑)。一度、『なぜ、こんなに若いのに僕を試合に出したの?』ってコーチに尋ねたことがあったんだ。彼は『お前の練習を見ていて、誰と戦っても気持ちが引くことがなかった。お前は誰も怖がらない。だから試合に出しても大丈夫だと思った」と言ってくれた。大会にはジムから5、6人が出ていて、僕らは誰も負けなかった。
凄く良いチームだった。アルトゥル・マリアーノやルイス・アウベスという強豪アカデミーと戦って、毎回のように結果を残していた。18歳、19歳とアハイアウ・ド・カボでムエタイの練習をしていた日々が、僕の打撃を相当に強くしてくれたはずだ。そして僕はMMAを戦うようになったんだ。お金を稼ぐ必要があったからね」
──ムエタイを戦っていた間、柔術の練習も続けていたのですか。
「続けていたよ。師匠はムエタイ・マスターだったけど、柔術も好きだったから。ただし、あの頃の僕がフォーカスしていたのは、ムエタイだった。それでもオズヴァルド・アウベスとフレジソン・パイシャオンに3年間、しっかりと柔術を習っていたことは大きかったよ。白帯だったけど、茶帯のハオーニ・バルセロスと一度手を合わせたことがあった。今の彼を見ていると、よくあの頃の自分が彼に向っていったなって思うけど(笑)。
アハイアウ・ド・カボのキッズと比較すると、ダントツで僕が強かった。極めまくっていたよ。すると、その話を聞いた腕に自慢のある柔術家がやってくる。そして、また極める。そんな感じだったから柔術でなく、ムエタイにフォーカスしたんだ」
──MMAを戦い始めてからも、ムンド・ジ・ルタで練習をしていたのでしょうか。
「MMAにデビューしてTFT(タタ・ファイトチーム)に招かれた。チアゴ・マヘタがいたジムだよ。TFT所属で2 、3 試合を戦いノヴァウニオンに移った。2010年だったかな、アンドレ・ペデネイラスから誘われたら、ノーとは言えないよね」
──確かに。
「ノヴァウニオンにはジョゼ・アルド、ヘナン・バラォン、ドゥドゥ・ダンテス、マルロン・サンドロとベストが集まっていた。最高の練習環境があったからね」
──ではMMAを戦うようになって、またリオに戻ったのですね。
「それがね、家族は車で2時間離れたアハイアウ・ド・カボにいるままで。ノヴァウニオンの練習環境は良かったけど、生活はハードだった。リオに来て何日か友人の家や叔父の家に泊まらせてもらう。でも、しばらくすると他の友達のところに移るんだ。1週間以上も、一つのところに世話になるとギクシャクしてくるからね。そうやって、常に寝泊りする場所は変わっていた。
色々な人が、僕が練習に専念できるように助けてくれたけど、住むところもお金もなかった。でもノヴァウニオンで練習をして、試合に勝つと皆が喜んでくれることが心の底から嬉しかった。それは、今も変わらないことだよ。結局、リオには長くて2カ月、そしてアハイアウ・ド・カボに戻って、またリオに行く。そんな感じでノヴァウニオンでは4、5年練習していたかな。
──デデ・ペデネイラスがプロモートする修斗ブラジルで戦い、RFAで戦う機会を得ました。RFAからAXSスーパーファイトと勝利し、TUF出演。そしてUFCと契約。TUFに出演したころは、もう米国に移り住んでいたのですか。
■RFA=レズレクション・ファイティング・アライアンス。当時、LFC=レガシー・ファイティング・チャンピオンシップと並ぶ、北米を代表するフィーダーショーだった。2017年1月に両プロモーションが合体し、LFA=レガシー・ファイティング・アライアンスが誕生した
「ノー。まだ米国に拠点を置いたことはなかった。ただファイトキャンプをブラックハウスで行い、ジョインア(ジョルジ・ギマリャエス。ブラックハウス代表。パントージャをRFAにブックした)のアパートに居候をさせてもらっていたんだ。『その方が米国では試合を戦いやすいだろう』と、ジョインアが言ってくれてね。RFAの時とか、UFCと契約した序盤もそうだった。
ただUFCの最初の3試合は、全てコーナーマンが違うんだ。デビュー戦はヘンリー・セフードとエリック・アルバラシンがコーナーマンだった。TUFの流れでね。2 戦目はダニエル・ボハーロ、ブラックハウスの打撃コーチだ。3 戦目はブラジルの友人、ペトソン・メーロ。その試合でダスティン・オーティスに負けた。あの時、このままではダメだと感じたんだ。もっと強くなって、家族を守るために金を稼がないといけないってね。
ノヴァウニオンの練習は良かったよ。ただしブラジルでの生活は、厳しかった。オーティスと戦った大会には、パフンピーニャもコーナーマンでやってきていた。『ATTで練習した。コーチになってほしい』と彼に話した。その足で『ブラジルには戻らない。フロリダに住んでATTの所属になる』と妻に伝えたんだ」
──急展開だったのですね。奥様の反応は?
「彼女は『あなたが決めたことに従うから、前に進んで。子供のことは心配しないで。私が守るから』と言ってくれたよ。
実はATTにやってくるまで、車の運転をしたことがなかった。車を買う金もなかったからね。でも米国で生きていくには、車は絶対に必要だ。米国に移り住むことで、人生が変わった」
──その頃の英会話能力は?
「ノー。英語の勉強をしたこともなかった。だから映画を見て、サブタイトル(字幕)を英語にして覚えた。読み書きは全然だけど、ヒアリングは問題なくなったよ。それにフロリダには多くのブラジル人がいて、英語が話せない人も少なくない。英語以上にスペイン語が通じる。気候も良いし、生活面で困ることは一つもなかった。ビーチもあって、海で泳ぐことができる。ブラジルと変わらない。生きることが、とてもイージーになったんだ。キョージのように日本人1人で来るのとは、全く違っていたと思う。でも、そのキョージがいるから、ATTも日本人選手が増えたよ」
今後タイラは打撃を強化し、もっと強くなっていくだろう
──ところでUFCフライ級戦線には12月に戦った朝倉海選手以外に、平達郎選手と鶴屋怜選手という2人の日本人ファイターがいます。
「レイ・ツルヤ、長髪の日本のキッドだ(笑)。レイはATTに来ていたよね。ファイトキャンプ中で減量もあったから、それほど練習はできなかった。凄く若いけどレスリングとグラップリングが強くて、何より練習熱心だったよ。打撃はやっていないので分からないけど、グラップラーとしては確かな力の持ち主だ。
それにダゲスタンのキッド、ムハメド・モカエフもATTにやってきて一緒に練習をしたことがあるよ。世界中から色々なファイターが来て、本当に良い練習ができる。レイも大きな可能性を秘めている選手だから、またATTに戻ってきてほしい」
──同じ階級のファイターは、いうとパントージャのベルトを狙っているわけですよね。そういう選手とも肌を合わせることは気にならないのでしょうか。
「そういう選手だから、一緒に練習をすることで僕は成長できるんだ。スパーリングはスパーリングだ。勝敗を争っているわけじゃない。実際、アドリアーノ・モライシュには1回のスパーで2度極められることもある。それでベルトを失うわけじゃいから。確実なことは、僕は最強じゃない。今も強くなり続けたいと思っている。UFCのベルトが最強の証だから、皆がベルトを狙うのは当然なだけで」
──ただし、その座は譲らない?
「そうだね。今、僕は経済的に不安がなく、将来の心配もない。フィジカルセラピストが、家にやってきて体のケアをしてくれる。これだけの環境を整えることができたのは、UFCのおかげだ」
──そのUFCで前戦では敗れたもののパントージャと同じく、人生が変わりつつある平達郎選手についてどのような印象を持っていますか。
「凄く興味深い選手だ。と同時にブランドン・ロイヴァルのような本当のトップと戦った時には、課題も見つかった。フットワークから、打撃をもっと磨く必要がある。だたしグラップリングに関しては、既に特別な1人だ。今、僕が彼と戦うとすれば打撃では明らかにアドバンタージがある。それもタイラが強いファイターと戦ったことで、分かったことだ。今後タイラは打撃を強化し、もっと強くなっていくだろう。ATTにいる日本の皆と同様に、UFC日本人ファイターが強くなることを期待している。
とにかく僕は日本のことが大好きなんだ。12歳の時に始めた柔術で、何事にも尊敬心を持つようにという哲学を学んだ。その教えは日本の文化そのものだ。子供の頃に見た日本のアニメも同じだったよ。人々を敬う。ベストを尽くすという哲学を日本の文化から学んだ。そしてカイ・アサクラ、タツロー・タイラ、レイ・ツルヤ、リンヤ・ナカムラがUFCで戦っている。
UFCが日本に戻るのに、最適の時を迎えたんじゃないかな。日本でUFCが開催されるなら、絶対に戦いたい。子供の頃、PRIDEを視てワクワクしていた。ファンのファイターへの想いが、信じられないほど強い。実際に、あの空気をアリーナで味わってみたい」
■朝倉海の初戦が世界王座挑戦。朝倉と自身の差。堀口恭司会との関係。TUFでの扇久保博正との間に芽生えた友情。パフンピーニャの素晴らしさ、中村倫也への伝言。そしてカイ・カラフランス戦についてパントージャが語るインタビューが掲載されているFight&Life Vol.107は2月21日(金)の発売です。