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【The Fight Must Go On】Media Passから周辺取材─03─2007年9月20日、IFL17&ヘンゾの柔術人生

【写真】IFLは非常にユニークなMMAプロモーションだった(C)MMAPLANET

国内外のMMA大会の中止及び延期、さらには格闘技ジムの休館など、停滞ムードの真っただ中です。個人的にも大会の延期と中止のニュースばかりを書かざるをえない時期だからこそ、目まぐるしい日々の出来事、情報が氾濫する通常のMMA界では発することができなかったMMAに纏わる色々なコトを発信していければと思います。こんな時だからこそ The Fight Must Go On──第36弾はMedia Passから──ポストファイト・インタビューではなく……周辺取材インタビュー、その03として2007年9月20日に開催されたIFL17=International Fight League 2007 Team Championship取材後に行ったヘンゾ・グレイシーの柔術レジェンズから、再録して紹介したい。

リコ・ロドリゲス、アンドレ・グスマォン、ファビオ・レオポルト、ジャマル・パターソンらがヘンゾ率いるNYピットブルズのメンバーとしてIFL世界王者となり、チャンピオンリングを手にした

IFLはリング使用、都市型チーム対抗戦を用いた特殊なMMA大会でヘンゾはNYピットブルズの監督として、この日パット・ミレティッチ率いるクワッドシティ・シルバーバックスを下し2007年チームチャンピオンを獲得。

記者会見後にIFLではなく彼の柔術家人生を振り返ってもらった。

グレイシーで最もフレンドリー、グレイシーでも最もクレイジー。12年8カ月前に愛すべきヘンゾが語った柔術人生とは。


――今も現役ファイターのヘンゾですが、今回のインタビューでは米国に移る前、ブラジル時代のことを中心に話をお伺いしたいと思います。柔術を始めたのは何歳のころなのでしょうか。

「5歳のときにホーウスの下で始めた。それ以前もリオブランカのアカデミーで遊んでいたけど、本格的に始めたのはコパカバーナのホーウスのアカデミーだよ。もともと家で父(ホビソン)と遊ぶときは、柔術やバーリトゥードの真似事ばかりだったし、柔術を始めることはごく自然の成り行きだった。アカデミーに足を運ぶこと自体が生活の一部だったし、それはプロフェッショナルになってからも変わりないよ」

――柔術を始めた当時は、誰が練習相手だったのですか。

「リオブランカのアカデミーでは、ホイラーとトレーニングしたこともあったけど、だいたいはホーウスの教え子たちだった。ホジャーの父であるマウリシオ・ゴメス、ジャカレ・カバウカンチ、私の姉と結婚したマーシオ・ストランボウスキー、マリブ、ヘナン・ピタンギ、凄い面々が揃っていた。私はアカデミーで、最年少だったんだ」

――本格的に始めてから、エリオ達と練習をしたことはありますか。

「ホーウスが亡くなる前は、ヒクソンのクラスには何度も出た。彼の死後は、ずっとカリーニョスと練習し、グレイシーバッハを創り上げるのを助けたんだ。やはり私はカーロス・グレイシーの血筋に当たる人間だからね」

――そのグレイシーバッハはバーリトゥードを嫌っていたにもかかわらず、ヘンゾは一族のなかで最も喧嘩早い人間だったと聞きます。

「イエス。喧嘩ばかりしていたよ。大好きだったんだ。当時からバーリトゥード・ファイターになりたいと宣言していたしね。柔術は柔術、スポーツとしての柔術も大好きで、色々な大会で優勝したよ。練習も一生懸命やっていた。その一方でいつもバーリトゥードのチャンピオンになりたいと思っていたんだ。当時から私にとっては、道衣を着た試合の次のステップがVTだった」

――そんなヘンゾの考えに対して、カリーニョスはどのような反応を示していたのですか。

「カリーニョスはVTが嫌いだった(笑)。ずっと嫌いなままだったよ。彼はスポーツライクな柔術が好きでしょうがない。でも、私がVT好きだったから、グレイシーバッハはここまで強くなれたんだ。バッハのトレーニングはギだけだったけど、私がノーギの練習をするようになった。当然、カリーニョスは良い顔をしなかったよ(笑)。でも、私はもっぱらノーギのトレーニングばかりしていた。限られたシチュエーションだけで戦っていては、本当の意味でグッドファイターとはいえないからね」

――それは、打撃も含めたトレーニングだったのでしょうか。

「もちろん。全てを想定したトレーニングだよ。ストリートでの喧嘩も多く経験した。16歳のときに足をピストルで撃ちぬかれた。他にも発砲されたことはままあったけど、あの一発のせいで、1年間も柔術のトレーニングができなくなったんだ」

――それだけで済んで、幸運だったという見方もできるのですが……。とにかく、すさまじい話ですね。

「マフィアとディスコで喧嘩になって、片目を潰したこともあったよ。そのマフィアの父親が凄い大物で、リオデジャネイロにはいられなくなったから、サンフランシスコに逃げて半年間、シーザーと暮らしていたんだ。ハハハハ。楽しい時間を過ごしたよ」

――失礼を承知で尋ねてさせていただきます。ヘンゾ選手は柔術を練習することで、我慢を覚えるということはなかったのですか。

「ハハハハ、そういう経験をして、私は我慢というものを学んだんだ。今、私は誰に対しても凄くフレンドリーな人間だと思うよ。ムサシ・ミヤモトと同じだよ。若い頃の彼はクレイジーだったけど、年月を経てジェントルマンになった。私はワイルドな面を持ち、性格がワルで染まっていたことがある。だからこそ、今のヘンゾ・グレイシーがあると思っている。とてもハッピーな年のとり方をしているんだ」

――ヘンゾはグレイシー一族のなかで、もっとも親近感を持てる人物で、偉ぶることもなく、物事を難しく語ることもない。が、その一方であなただけは怒らせてはいけない、まだワイルドな面が残っているからと聞かされたことがあります。

「ハハハハ。乱暴な性格をまだ内面に残しているからね。ただ一度、ワルに身を染めれば、そういうフィーリングの正体を知ることができる。そして、ワイルドな一面を内面に封じ込め、礼儀正しく生きることが可能になるんだ」

――柔術の大会に出るときも、やはりそういう一面を内包したまま、冷静に戦っていたのですか。

「私はとてもアグレッシブな柔術家だった。同時にスポーツというものを理解していたから、クリーンに戦っていたよ」

――当時は、ムンジアルやブラジレイロはなく、コパ・カンパニーやコパ・アトラティコ・スゥなどカップ戦が主流だったようですね。

「私は紫帯時代、ペナ級で12の大会で優勝している。当時、最大規模だったアトラティコ・スゥでは毎大会で優勝した。アトラティコ・スゥで無敗の柔術家は、私一人だ」

――ペナ級なら、ホイラーと同じ階級ですね。

1983年のコパ・アトランティコス黒帯ペナ級で優勝したときのヘンゾ。左は実弟ハウフ。中央が叔父のカリーニョス

「ホイラーは黒帯、私は紫帯だった。その後、茶帯になり、23歳のときに黒帯になったんだ。17年前の話だよ。黒帯になってからアトラティコ・スゥでは、ペナ級と無差別級で優勝しているよ」

――ペナ級の体で、無差別級で優勝したのですか!

「アブソルート級での戦いはチャレンジ以外のなにものでもなかった。けれども、その挑戦することが何よりも好きだったからね」

――そのチャレンジ魂が豊富で、アグレッシブな柔術家だったヘンゾ選手が、実はスパイダーガードを考案したというのは本当の話ですか。

「そうだよ。スパイダーガードの下地を作った。私はアカデミーで一番力がなかったから、スパイダーガードを考えついたんだ。カリーニョス、クローリン、ヒリオン、マチャド兄弟がアカデミーにいて、彼らは体が大きく、力も強かった。そんな彼らでも、パスできないガードが必要だったんだ。いくら強い彼らだってパスをしない限り、私を極めることはできないからね」

――こうやってご本人から話を伺っていても、なおアグレッシブな攻めが代名詞のヘンゾが、スパイダーガードの発案者だとはイメージできないです。

「スパイダーはベスト・ディフェンスだよ。いくら私がアグレッシブでも、まず自分の身を守る必要があるからね。パスをされないなら、フィニッシュもされない。ただし、今の柔術界でスパイダーガードを使う連中は、アグレッシブではない。ただのホールディングになってしまった。私はスパイダーガードからスイープをして、フィニッシュに結び付けていた。それが本当のスパイダーガードなんだ」

――その本物のスパイダーガードをグレイシーバッハで、指導していたのですか。

「もちろんだ。ただ、マーシオ・フェイトーザはそこから動かなかった。何度、注意してもホールドしたままだった。だから、いつだって『マーシオ、ポ~ハァ』と叫んでいたんだよ(笑)」

――アハハハ。ところでヘンゾが柔術で活躍していた時代、誰か目標にした柔術家はいましたか。

「ホーウスだね。人格者だったし、柔術でも彼の動きを眺めることが大好きだった。ホーウスのように戦う、彼のような人間になりたいと思ってきた」

――バッハの軽・中量級といえば、もう一人、ジャンジャック・マチャドという強豪もいました。彼とはどのような関係だったのですか。

「ジャンジャックは柔術家としてだけでなく、指導者としても非常に優秀だった。バッハ時代はいつも一緒に練習し、一緒に住んでいた。兄弟のようなものだ。ストリートで喧嘩をするとき、後ろから襲われないようにジャンジャックが背後を守ってくれていたんだ(笑)」

――ダハハハ。良い話です。ではグレイシー・ウマイタやカーウソンとは、どのような関係だったのでしょうか。

「ウマイタとはすごく良い関係だったよ。カーウソンのところでは一度も練習したことがない。カーウソンは、とても面白くて人間的には大好きだった。ただ、柔術のトーナメントではカーウソンは、最大のライバルだったんだ。彼の生徒には強い柔術家が多かったし、彼らは戦うべき相手として、我々バッハの前に立ちはだかっていた。

カーウソンの教え子たちが、私を強くしたといってもいいだろう。セルジーニョという、とても強い柔術家に一度、敗れたこともある。その後、1分ほどでチョークを極めたら、彼は引退してしまったんだ。クレイジオ・シャービス、ヴァリッジ・イズマイウ、いろんなライバルがカーウソンの教え子にはいたよ」

――イズマイウと仲が悪いのは、有名な話ですね。

「そうだね。奴とは1時間も戦ったことがある。プロフェッショナルの柔術マッチだった。私はその試合で敗れたが、失うものはなかった。勝ち負けでなく、戦うことに重きを置いていたからね。ファイターと名乗る限り、戦うことが重要だ。ヴァリッジと私はどちらが優れたファイターか問いたい。私は彼より優れたファイターだと自認している。奴は今、何をしている? 戦うことを止めてしまっただろ。私は今も戦い続けている。つまり、私は奴に勝ったんだ(笑)」

――そのイズマイウが、柔術とルタリーブリの世紀の一戦といわれたバーリトゥードに出場したとき、あなたは柔術チームの練習で、決して好きではなかった彼をサポートしていたとそうですね。

「好きでないのではなく、奴のことが嫌いなんだ。それでも一緒にトレーニングをしたのは、何よりも柔術のことが大切だからだよ。お金よりも、グレイシーという名前よりも、柔術が大切なんだ。柔術は絶対にルタリーブリに勝たなくてはならなかった。もちろん、私自身が戦いたかったよ、でも代表に選ばれずにヴァリッジが柔術の代表になった。なら、私は奴に協力するよ。アイツはスピードが必要だったからね。ただし、ヴァリッジはよく戦ったよ。ムリロ・ブスタマンチ、ファビオ・グージェウも勝利し、最大のライバルとの戦いから柔術が生き残ることができたあの日は、今でも私の人生のなかで最高の1日だよ」

――グレイシーの名前より柔術が大切というのが、ヘンゾらしいです。ただ、バーリトゥード・ファイターの側面が強く、それほど柔術に対して情熱を持っていることは伝わっていなかったような気がします。

「私のように柔術に対して、思い入れを持っている者は少ない。自分のことだけを考えている肝っ玉の小さい連中が多いんだ。真のチャンピオンとは自分のこと、そして他の人々のことを常に想う気持ちでいることだと私は思っている」

――ところでルタリーブリと関係が悪かったころ、ルタのファイターとプライベートでVTをしたことはありますか。

「イエ~ス。私は当時のルタリーブリを代表するマルセロ・メンジスと戦いたいとずっと思っていたんだ。だから、2回ほどVTで戦おうと伝えたけど、2度とも現れなかった。だから、ビーチで奴を見つけたときに殴りかかったんだ」

――それは……、VTというよりも暴行じゃないですか……。

「そんな状態なのに、奴は向かってこなかったんだ。まぁ、そういう時代だったんだよ(笑)。私はクレイジーだった。クレイジーさでは、誰も私に適わなかったよ。ハイアン? 奴もハウフも私の足元にも及ばないよ(笑)」

――日本でヘンゾ選手のそのような一面が垣間見られたのは、RINGSにセコンドで来日し、アジウソン・リマとイリューヒン・ミーシャの試合で、猛抗議をしたときだけですね。PRIDEに来日するようになってからは、とてもフレンドリーな印象しかありません。あの抗議をしているときは、ヘンゾがホリオン・グレイシーに見えるほどグレイシーらしかったです(笑)。

「サンキュー。ハハハハ。RINGSの連中は、言っていることに一貫性がなかった。だから、抗議したんだ」

――個人的にはただの良い奴よりも、あの姿があったほうがずっと信用がおけますし、愛すべき人間だと……。

「いくらナイスガイでも、スイッチが入ればクレイジーになる。いつでもね(笑)」

――今やそのクレイジーさなど微塵もなく、ニューヨークで成功を納め、ニュージャージー州のアスレチック・コミッションの信望も厚いヘンゾですが、なぜ、米国へ移住を決意したのですか。

「米国にこそ、このスポーツの未来があると思ったからだよ。確かにリオデジャネイロでは全てが揃っていた。でも、ブラジルは世界と距離がありすぎる。米国にいれば、ヨーロッパとも日本とも関係を築けるし、ビジネス的も将来性があると思った。実際、私のアカデミーには900人もの生徒がいるんだ」

――多くのグレイシーは西海岸に進出していましたが、なぜNYを選択したのですか。

「NYは世界の中心、NYがなければ何も始まらない。ただ11年前は誰も柔術のことなんて知らなかった。だからこそ、そんなNYで成功でき、柔術が普及したことが嬉しいんだ」

――ここまで来るのに相当、難題もあったのではないですか。

「問題なんてなかったよ。何かあっても、私は問題だとは思わない。眠りにつくときだって神に、明日、問題を起こしてくださいって願うほどさ(笑)。何かあったとしても、私はそれに立ち向かい、乗り越えることができる。そうやって生きていくことが楽しいんだ。もっともっと色んなことが起こって欲しいと思っているよ」

――ホリオン・グレイシー、ヒクソン・グレイシー、ホイス・グレイシー、彼らとヘンゾ・グレイシーの違いは、肉親以外でも強豪と呼ばれる教え子たちを育てたという点にあると思います。ヒカルド・アルメイダを初めとして米国でもマット・セラ、ジャメル・パターソンなど、MMAやグラップリングで活躍をしている教え子がたくさんいます。

「さっきも言ったように、肝っ玉の小さな人間、小さなソウルしか持っていない者が多いんだ。グレイシーファミリーであるのに、自分の持ち得るものを、他の人々と分け合わない。だから、チャンピオンを育てることができないし、良い人間を育てることもできない。私は良い選手、良い指導者を育てることができた。その根底には、彼らにもっと良い人間になって欲しいという想いがあったからなんだ」

――米国でもグレイシーファミリーは有名ですが、ヘンゾ選手とシーザー・グレイシー以外に、世界で通用する優秀な教え子と良好な関係を結ぶことができている指導者も見当たりません。

「柔術を自分たちのモノにしているからだよ。私は血のつながりなんかよりも、ただ強い選手を育てたいだけだ。大切なことはチャンピオンにするために、全てを伝授するということ。マットもジャメルも白帯の時から私の下でやってきた。誰だろうが、オープンマインドで接し、結果的に誰の手によって柔術が普及しようが私は構わない。柔術が広まれば、それでいいんだ」

――それはカーロス・グレイシーの教えなのでしょうか。

「これは……、私の考えといっても良いと思う。私は自分の屋根があれば満足できるけど、多くのグレイシーが同じトレーニングをし、同じ教えを受けたにも関わらず、先を見すぎてしまった。柔術を柔術として伝え続ければ、我々に教えを受けた個々の力が一つになり、柔術は普及していくのに。そんなことも、理解できていない者が多い。

私は自分の教え子には、分け隔てなく全てを伝えている。同時に人間的な成長も促している。人間的に成長すれば、チャンピオンへの道も開けてくるからね」

――柔術、グラップリング、MMA、全てにおいてで──ですか。

「全てで言えることだよ」

――ヘンゾにとっての柔術とは一体、何なのでしょうか。

「柔術とは、全てだよ。柔術を取りあげられると、私の体の中には何も残らない。柔術は全てを包含している。素晴らしいスポーツであり、素晴らしい生き方、そして身を守る術として最高の戦いだ。これらの3つ要素の全てが、柔術のあるべき姿で、もしどれか1つでしかないようなら、私はここまで柔術の普及に心血を注ぐことはなかったよ」

――それはグレイシー柔術という名のつく柔術のことなのですか。それとも、ブラジリアン柔術全般にいえることなのでしょうか。

「ブラジリアン柔術かグレイシー柔術、そんな風になったのは、ホリオンのせいだよ。ホリオンは、最初に米国に来て柔術を指導するようになり、他の人間が柔術の指導をできないように画策したんだ。グレイシー一族でありながら、彼以外のグレイシーは、自らのアカデミーにグレイシーと名乗れなくなった。

だから、私はブラジリアン柔術と名を変えたんだ。私は今もグレイシーという名前に誇りを持っている。だからこそ、ホリオンが米国に持ち込んだ柔術、その有り様が好きになれない。そればかりか、悲しむべきことだと思っている。しっかりと指導しないし、我侭にも程がある。ホリオンは私を訴えようとしたんだ。私は柔術を教えるため、自分の身を守るために、グレイシー柔術という名を捨て、ブラジリアン柔術という名前が通称になるよう努力した。

だからテクニック・ビデオでもブラジリアン柔術と名乗ったし、教本にもブラジリアン柔術という名称を使用したんだ。いまや、人々はみなブラジリアン柔術とよび、グレイシーでさえブラジリアン柔術と言うようになった。グレイシー柔術はブラジリアン柔術だってね」

――柔術が全てだというヘンゾですが、グレイシーという名前は何を意味するのですか。

「私の祖父カーロスから受け継いだ最大のギフトだ。グレイシーという姓は、私に誇りを与えてくれた。柔術を思い起こさせてくれる名で、私を強くしてくれたんだ」

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