この星の格闘技を追いかける

【Column】ニッポンのメジャーリーガー(誕生前夜)

2011.12.12

Yushin Okami
【写真】今や「Anderson vs Okami I」と称されるようになった最初のアンデウソン・シウバ戦、前日計量での岡見勇信とアンデウソン・シウバ。79・5キロ契約だから当然だが、岡見もアンデウソンも細い!!

※本コラムは「格闘技ESPN」で隔週連載中の『10K mile Dreamer』2011年9月掲載分に加筆・修正を加えてお届けしております

文・写真/高島学

岡見勇信と初めて話をしたのは、電話取材だった。

2004年6月か7月、ロシアでキャリア初黒星を喫した彼は、初めて話す相手、しかも関西弁訛りのインタビュアーの問いに、若干、戸惑いを感じさせながら、言葉を丁寧に選んで懸命に答えてくれた。

2度目のインタビューは、それから1年半後、最初の取材後も国内のケージ大会でキャリアを重ね、敗戦はハワイで現地のトップ選手と戦い、地元判定で敗れたぐらい。上々の成績を残していた岡見だが、所属する和術慧舟會の関係で、当時、絶頂期にあったPRIDEで戦う扉は、事実上閉じられていた。

岡見が慧舟會に入門して以来、現在までセコンドとして、支えている教育係り的な存在の磯野元さんは、このまま岡見が世界の頂点で戦えないのであれば、慧舟會離脱も頭にあったと後に語っている。


2005年、日本格闘技界をもう一方でリードするHERO’S出場も韓国大会、その後につながる舞台ではなかった。

力はついている。しかし、自らの存在感を示す場が見つからない岡見が、世界への扉をこじ開けたのは、2006年1月にハワイのMMAプロモーション=ランブル・オン・ザ・ロックが開いたワールド・ウェルター級トーナメントだった。

この前年にTUFの成功により、米国でブームの兆しが見えてきたUFC、そしてこの世の春を謳歌していたPRIDE勢の参加こそなかったが、アンデウソン・シウバ、ジェイク・シールズ、カーロス・コンディット、フランク・トリッグ、デイブ・メネー、シャルート・ベヒーシモ、ロナルド・ジューン、錚々たる顔ぶれが揃うトーナメントに岡見の出場が決まった。

大会1カ月前、電話でなく初めて顔を合わせて取材をした岡見は、この時点でも取材に慣れておらず、素直な本音の部分と、取材なのだから何かを言わなければならない――という心境が見え隠れした答弁に終始した。

僕のインタビューは、木で例えると幹の部分よりも、枝葉の部分が多い――典型的な脱線路線だ。話のゴールを決めていない。落としどころを見て、質問を重ねると、選手の言葉から意外性のある発言は少なくなり、文字通り『型通り』な言葉のやり取りに終始してしまう。

特に話し下手の選手は、色んな話を振って、少しでも本音に近い言葉を引き出したい。そして、選手が〝言ってしまった”と感じてしまうような言葉を読者に伝えようと思っている。

「称号が欲しい。ベルトとか、トーナメント優勝だとか。自分に足りない部分は、そういうもの」
「今の自分なら武士道GPでも勝てる自信がある」

この時のインタビューでは、この二つの彼の言葉が、とても印象に残っている。今も岡見本人が『乗せられた』と振り返る言葉、そして、僕のことを『怖いわぁ』と警戒するのが、後者の台詞だ。

ただし、僕は今でも、あの言葉こそ、岡見が一番、世間に知らしめたかった言葉だったと信じている。

それぐらいの気持ちを持っていないと、ROTRのトーナメントに出ようなんて思わないだろう。大きな舞台=オイシイ状況だった日本の格闘技界。時に勝敗は二の次で、何を基準にしてか、良い試合というものが幅をきかせていた。

岡見はそのオイシサの部分がない、そして勝ち負けが全てのような舞台に挑み、自らの存在価値を高めようとしていた。結果、勝ち負けが全ての場で、反則勝ちという中途半端な勝利を手にし、限りなく大きな自信を喪失した。

アンデウソンと向かいあった2分33秒間、いや計量で顔を尽き合せた瞬間から、岡見は恐怖に支配されていたように思う。

グラウンド状態での蹴り上げで、戦闘不能に陥った岡見。大会後にホノルルのデニーズで偶然、顔を合わせた彼に掛ける言葉は見つからなかった。
(この項、続く)

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