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【Interview】ジェフ・カーラン(01)「16年で53試合、十分に戦った」

2013.10.29

Jeff Curran

【写真】MMAの活動自体は決して遅くなかった中西部だが、ビジネスとして定着するには長い年月が掛かった。ジェフ・カーランはそんな中西部のMMA歴史の生き証人だ (C)MMAPLANET

第1回UFCが開催されてから来月で20年、それ以前にブラジリアン柔術の練習を始め、1997年から16年に渡りMMAを戦ってきたジェフ・カーラン。

米国軽量級のパイオニアは8月16日のRFAにおけるペドロ・ムニョス戦の敗北を受けて、現役引退を口にした。UFC人気が定着する遥か前から柔術とMMAに関わってきたジェフに、自らのキャリア、中西部イリノイ州シカゴ郊外のMMAの普及について尋ねた。

※ここで紹介したジェフ・カーランが指導するチーム・カーランMMAや、UFC世界ライト級王者アンソニー・ペティスの所属するルーファススポートの模様が「Fight&Life 格闘紀行=米国中西部編」として掲載されているFight&Life Vol.39は現在、全国の書店で絶賛発売中です。

──8月16日のRFAバンタム級王座決定戦となったペドロ・ムニョス戦後、引退を口にしましたが、これは正式なリタイア宣言と受け取っても構わないのでしょうか。

「TVカメラが回っていない時の発言だからね……。最初はメインのタイトル戦だったので、僕もカメラの前で話す予定だった。だから、マイクを手にしてちゃんとファンの皆に話したかったんだけど、ケージから出ていくように促されてそれができなかった。僕自身、あの試合で負ければ引退するって決めていたんだ。自分に嘘はつけなかった。UFCで戦えないなら、もう試合に出たいとは思わなくなっていたんだ。

Curran vs Munhoz【写真】3週間半前オファーで、ペドロ・ムニョスと5分×5Rを戦い抜いたジェフ。スプリットで判定負けを喫したが、一方的に敗れたわけでなく、まだ現役で戦う力を持っている(C)RFA

一つの敗北は、UFCに戻るまでもう1年、時間が必要になることを意味する。来週で36歳になる。もう、潮時だろうと思ったんだ。あの試合で勝ったら、UFCに戻れるという確約はなかった。でも、UFCは僕に興味を持っていた。特にフライ級で戦うということに関してね。既にエクストリーム・チャレンジではフライ級で再出発を果たしていた。

彼らのリストにあるファイターを破れば、僕もまたリストに名前を載せることができる。ムニョスに勝てば、よりUFCに近づいたのは確かだった。もしくは、RFAというプロモーションのタイトルを取ってから引退――、いずれにしても引退については考え続けてきた」

──UFC以外で、戦うという選択肢はなかったわけですね。

「ケガもあるしね……。もう戦うべきじゃないんだ。拳にも、手首にも問題があった。試合前からだ。痛みは消えていない。鼻も折れて、歯も折れた。唇の感覚がなくなることもあった。そんなケガが増えていく一方だ。もう、引退しろっていうサインだと感じていた。今後の人生を薬漬けにはしたくなかったんだ。16年で53試合、もう十分戦ってきたよ」

──日本は軽量級中心の国です。私たちメディアも、軽量級の強豪を探し求めていた時代があります。UFCがライト級を始める前も然り、あるいはWECがズッファに買収されるまでフェザー級やバンタム級は世界のトップが日本に集まっていました。そんな頃、常にジェフは我々の意中にあるファイターでした。そして、前回の試合もペドロ・ムニョスに圧倒されたわけでもなかったです。

「RFAに再戦を訴えることもできたんだ。キャンバスは異様に滑りやすかった。屋外大会で、海外に近いし、日が沈む頃からキャンバスはとてもウェットで、スリッピーになっていた。アンダーファイトで、彼らは流血のあとを掃除するために何かの薬品を水で薄めて使っていた。なんか石鹸みたいなもの使っていたから、キャンバスのいたるところが滑りまくりだったんだ。

僕の作戦は積極的にテイクダウンを仕掛けることだった。そしてトップを奪うこと。最初に何度かテイクダウンを試みては、足が滑って姿勢を乱した。試合前から湿気を含んだ空気で、キャンバスがウェットだったから、レフェリーのビッグ・ジョン・マッカシーには、本当にこれで試合をするのかって尋ねたんだ。彼も『気を付けて戦え』と言っていた。コミッショナーにも尋ねたけど、そのまま時間が進むごとに状況は悪くなっていった。

僕らはまだラッキーだったかもしれない。ところどころがスリッピーだと、凄く足下が気になるけど、僕とペドロが戦った時はもうケージのなか全体がスリッピーだったから(笑)。もう引退してしまうけど、体調は過去最高だった。スタミナも5Rを通して、本当に切れることはなかった。3週間半の前のオファーだったけど、普段の食生活のおかげでバンタム級で戦うには全く問題がなかったんだ。

3週間ほどしか試合用の練習をしていなかったのに、ムニョス戦が決って体を動かすと、これまで以上に良い動きができた。勝てる試合……、勝てるはずだったんだ」

──ジェフはキャリアの序盤では、155ポンドで戦うことも少なくなかったです。ようやく適正体重で戦えるというときには……。

「ちょっと遅かったね。時代が僕に追いつくのが(笑)。もう、僕はオールドガイだ。昨夜、何人かのUFCファイターのレコードを眺めていた。ドナルド・セラーニ、30歳。ハファエル・ドスアンジョス、28歳。二人とも20試合から25戦のキャリアがある。セラーニは20勝6敗だ。ドスアンジョスは確か18勝4敗ぐらい。家内に言ったんだ、僕は彼らの2倍ぐらい戦っているってね。もう36歳になる。でも、セラーニってもう僕ぐらいのダメージがあるんじゃないか。彼が今のまま、あと6年も戦い続けたらどうなるんだろう。ちょっと怖くなったよ。

確かにデビュー間もないころは、随分と自分より大きなファイターと戦っていたよ。グローブのない戦いも経験した。そして、ボコボコにされた。ようやく自分の体重で戦えるようになったけど、もう終わりにしろって体が言っているんだ」

──1998年にプロデビューをしたジェフですが、当時はズッファUFCもなく、PRIDEも人気が爆発する前でした。あの当時、このシカゴ郊外でMMAファイターになろうと思ったのはなぜですか。

「一番最初に出た試合、モンテ・コックスの開いたイベントだったんだけど、地元の小さな柔術スクールでチラシを見たからなんだ。アイオワで3階級の8人トーナメントが開かれ、優勝者はプロになれるってものだった」

──もう柔術は始めていたということですね。

「柔術は16歳の時に始めた。今では僕の黒帯になっているアダムという人間が、グレイシー柔術のセミナーに出たんだ。そして、地元のハッキドー・スクールで毎週水曜日の夜に柔術、グラップリングの指導を始めた。当時、僕は空手を3年間習っていて、友人たちが『グラップリングのクラスで出てみようぜ』って言い出して、一度クラスに出てから二度と空手道場に戻ることはなくなったんだよ(笑)。

柔術を始めた直後にホイス・グレイシーが優勝したUFCの第1回大会を見たんだ。友人の一人がPPV中継があるからって、家に呼んでくれてね。で、ホイスの試合を見た時、『これ、俺がやっているマーシャルアーツだ』って(笑)。つまり、つまりブラジリアン柔術を自分が習っていたって、ホイスの試合を見て気付いたんだよ」

<この項続く>

<Bio>
Jeff Curran
1977年9月2日、イリノイ州クリスタルレイク出身。
プロ修斗アメリカス・ライト級、APEXフェザー級王座を獲得。
ヒクソン・グレイシー系ペドロ・サワーの黒帯。
MMA戦績34勝16敗1分

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