【Column】リトアニアのMMA=シマナイティス王朝(後篇)
【写真】中央がドナタス・シマナイティス。2003年4月、リトアニア第二の都市カウナスのティターナス・ジムで。
※本コラムは「格闘技ESPN」で隔週連載中の『10K mile Dreamer』2011年8月掲載分に加筆・修正を加えてお届けしております
文・写真/高島学
2003年4月、大会を翌日に控えているのにドナタス・シマナイティス自らが、ヴィリニスの空港に迎えに来てくれた。リトアニアの首都にはまだ雪が残り、春という明るい音の響きには程遠い、灰色の冬空に街全体が覆われていた。
ドナタスの愛車ボルボのバンパーには左からRINGS、中央にBUSHIDO、右にSHOOTOの文字が堂々と記されている。
修斗公式戦開催に興味を持っていたドナタスは、既にK社長の仲介で大河内貴之を招聘し、修斗ルールに準じた試合を試験的に行っていた。それにしても、3月に日本で渡された名刺の肩書きがRINGS LITHUANIA代表だったのに対し、空港で差し出してきたビジネスカードにはSHOOTO LITHUANIA代表と記されているのには、唖然とするしかなかった。
宿泊先へ着くと、僕以外の日本人記者が二人、そして矢野卓見、今成正和、所英男、小谷直之という面々が、ロビーに集まっていた。
リトアニア訪問を思い立ったのは、KOKルールや掌底でパウンド無しの試合が行われている国で、どんなファイターが育ちつつあるのか興味を持ったから。どこか牧歌的に雰囲気を楽しみにしていたが、ドナタスというやり手は全てにおいて、僕の想像を超える格闘技界を、この小国に築いていた。
【写真】2003年4月5日、エメリヤーエンコ・ヒョードルはパウンドなしのKOKルールで、エギリウス・ヴァラビーチェスをアキレス腱固めで破った。
初めてのリトアニア取材は、ZSTとの交流により日本人ファイターが4人も出場し、メインイベンターはエメリヤーエンコ・ヒョードルが務め、さらに修斗ルールの試合が2試合含まれた大会になっていた。
BUSHIDO(現地ではBUSIDOと書く)協会代表が、現地で最も通じるドナタスのポジションで、ブシドーは格闘技番組名でもあった。週に3度、中継される「ブシドー」はリトアニアBUSHIDO協会主催の試合だけでなく、PRIDEやパンクラスの試合も視聴できた。
バスケットボールに次ぐ人気スポーツとして、リトアニアに普及していた総合格闘技は、パウンドが許されようが、掌底+寝技での打撃は反則だろうが、全てブシドーという認識がなされていた。
1日中鳴りやまない携帯を二つ抱え、それでいて充実の笑顔を見せるドナタスは、完全にリトアニア格闘技界を掌握していたのだ。
ソビエト連邦のイチ共和国時代、彼はリトアニア柔道選手権で4度優勝、サンボも3度制している。陸軍でボクシングに手を染めるようになり、入隊1年後にはバルチック選手権で優勝。スポーツマイスターの称号を得ている。
リトアニア独立に伴う除隊後も、ソ連時代から催されてきた護身選手権(道着+拳サポーター、スタンドの直接打撃、投げ、打撃無しの寝技が認められていた)を2連覇し、自ずとドナタスの格闘技思考は、トータルファイトに向かっていた。
故郷アリートゥスにローリナス・ジムを開き、96年にタイへ修行に出かけ、世界アマ・ムエタイ選手権にも出場を果たしたドナタス。そして――97年にリトアニアでブシドーという名前で、UWFインターの中継が始まった。
翌年、ドナタスはリトアニア・ブシドー協会を設立し、99年に第1回大会を開催した。特筆すべきは、その格闘技思考をビジネスとして、国中に広めた手腕だろう。独立して間もない若い国で、資本主義世界にいち早く順応、さらに旧世代の権力の象徴である軍と良好な関係を結ぶことで、彼は成功を手繰り寄せた。
春と秋のビッグショーでは、欧米、日本からファイターを招聘し、大会後は狂乱のウォッカ攻勢パーティ。杯を断ると、恐ろしいことに頭からウォッカをぶっかけてくる。そして、両手を広げ、翼のように羽ばたいて『ピヨピヨ』なんて口ずさんで、その場を離れていく。
【写真】2003年11月、デンマーク修業時代のマイク・パイルもブシドーに出場し、狂乱のパーティを経験している。
初めてリトアニアを訪れてから、8年が過ぎた。ドナタスとは最近、米国のMMA会場で顔を合わすことが多くなった。母国だけでなくモルドバ、ベラルーシ、ポーランドとその勢力を広め続け、今やドナタス・シマナイティス連邦を構築しつつある。
にも関わらず、その笑顔は当時のまま。ビジネスに成功しても、格闘技が好きじゃないと、あの笑顔は持続しないと彼を見て思う。そう、バルトのダナ・ホワイト、それがドナタス・シマナイティスだと。