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【JBJJF】RIZIN WEST 審判監督を務める滝川直央の柔術人生─01─「UFCを見て骨法から始めました」

Nao Takigawa【写真】滝川理事が語ってくれた、1999年代から2000年代初頭の柔術ネタは日本ブラジリアン柔術界の宝物だ (C)NAO TAKIGAWA

21日(日)、兵庫県神戸市のグリーンアリーナ神戸でJBJJF主催「RIZIN FF JIU-JITSU OPEN TOURNAMENT WEST 2018」が開催される。

関西圏では初開催となるRIZIN公認柔術大会のレフェリーディレクターを務めるのが、JBJJFの滝川直央理事だ。関西でこのような大会を行う意義に始まり、グレイシーバッハJAPANのヘッドインストラクターとして、黎明期から日本国内の柔術普及に注力してきた滝川理事の柔術人生を振り返り、柔術観を語ってもらった。
Text by Tsubasa Ito


――21日にRIZIN FF JIU-JITSU OPEN TOURNAMENT WEST 2018が開催されますが、この大会にはどのように携わられているのでしょうか。

「僕は日本ブラジリアン柔術連盟の理事とともに審判副部長をやっておりまして、関西圏の大会ではレフェリーディレクターを務めさせてもらっているので、RIZINにおいてもレフェリーディレクターを務めさせていただく形です」

――RIZINと協力して大会を開催することについては、どんな感想をお持ちでしょうか。

「柔術って誰でも参加できるという意味で、間口が広いですよね。単純に大会が増えるのはいいことですし、それプラス、RIZINという一般にも通用する名前で柔術の大会を行うことは、RIZINにとっても柔術の普及を目指している日本ブラジリアン柔術連盟にとっても大きなことだと思います」

――関西でRIZIN柔術が開催されるのは、今回が初となります。

「エントリーリストを見ると、普段の関西選手権や西日本選手権では見ないようなアカデミーからも参加があります。それもRIZIN効果と言えるでしょうね。柔術はどうしても一般の人が見ておもしろい格闘技ではないので、実際にやってもらうことでその魅力が伝わるのかなと思います。そういう意味では、体験する機会が多ければ多いほどいいですよね」

――ここからは改めて滝川さんの柔術人生を振り返っていただきたいと思います。柔術との出会いはどのような形だったのでしょうか。

「僕が高校生の時ですね。ホイス・グレイシーがケン・シャムロックに勝って優勝した、UFCの最初の大会を格闘技通信で見たのが柔術を知ったきっかけです。その頃は、バーリートゥードと言われていた総合格闘技がブームを迎える前段階くらいでした。

それから総合格闘技をやりたいという気持ちが生まれたんですけど、当時はやるなら東京に行くしか選択肢がなかったので、東京の大学を選んで実家がある兵庫県から上京しました。最初から柔術に触れたわけではなくて、まず骨法を始めたんです」

──おぉ、骨法を!!

「8ヵ月くらい経った時に矢野卓見さんが骨法をやめて烏合會をつくられて、それについて行く形で僕も一緒に練習をさせてもらうことになりました。中井(祐樹)さんとか浜島(邦明)君とはそこで知り合ったんです。

烏合會に来ていた方が当時のグレイシー・ジャパン、今のアクシスの代表である渡辺孝真さんとお知り合いで、渡辺さんが毎週日曜日にブラジリアン柔術をスポーツセンターで教えていると聞いて、参加させてもらったんです。そこで、数ヵ月後にグレイシー・ジャパンができるからそっちに来たら?と誘っていただいて、そちらに行かせてもらった形です」

――第1回全日本選手権で準優勝されたのはその頃ですか。

「第1回の時は、すでに日本とブラジルを行き来していたと思います。ブラジルがどういうところかわからなかったので、とりあえず1回行ってみようと。大会にはグレイシー・ジャパン所属として出たんですけど、実際はもうやめていました。

大学を中退して東京の家も引き払って実家に帰っていたんですけど、お世話になったし1回くらいはグレイシー・ジャパン所属で出させてもらおうかなと思ったんです」

――ブラジルに渡るきっかけは、マーシオ・フェイトーザから指導を受けたことだったそうですね。

「グレイシー・ジャパンにマーシオがセミナーで来て、なぜか意気投合したんです。当時の日本の柔術ってブラジル人から見たら、赤ちゃんみたいな状態だったと思うんですよね。『本当のブラジリアン柔術を学びたいならブラジルに来い。一切の世話をしてやるから』と言われて、じゃあ行こうと。正直、当時は欲求不満状態だったので」

――日本の柔術に物足りなさを感じていたと。

「烏合會の時にノーギで寝技を練習していたんです。当時は日本で柔術が始まったばかりの頃なので、柔術未経験者とかちょっと柔道をかじっていた人くらいしかいなくて、その人たち相手では歯ごたえがない日々が続くわけです。かと言って、自分が強いわけではないんですよ。

当時の僕は白帯だったんですけど、たとえ全日本で準優勝させてもらってもブラジルに行けば赤子の手をひねるように、簡単にやられてしまうような実力だったので。自分も決してレベルは高くないのに、日本だと上のほうになってしまう状況がおもしろくなかったんです」

――ただ、いくらお誘いがあったとは言え、大学をやめてブラジルに行く決断はなかなかできることではないような気がします。

「それくらいフラストレーションがすごかったんですよね。当然、ポルトガル語なんて話せなかったですし、大学をやめるということもあるので、もちろん不安ですごく悩みました。でも、僕の中ではグレイシー・ジャパンに残るという選択肢もなかったですし、格闘技をやめるという選択肢もなかったので、最終的にはブラジルに行くことを決めました」

――2000年の初頭からブラジルに定住されましたが、本場の柔術はいかがでしたか。

「衝撃の連続でした。本当に何もできないんですよ。ちょっとはできるかな、くらいの気持ちで行ったんですけど、とんでもない。紫帯や茶帯や黒帯を相手にしたら無理なのはわかっていたんですけど、正直、自分も青帯くらいの実力はあるんじゃないかなと思っていたんです。

実際は攻防ができるレベルにも到達していなくて、ただひたすらやられ続けるだけでした。今でもよく覚えているんですけど、それを経験してからは紫帯に到達できればいいなという気持ちになりました。紫帯すらとても見えないような状態だったので」

<この項、続く

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