【Special】柔術と共に──X-TREME EBINA柳澤哲裕─01─「MMAでは見られない技に魅了されました」
【写真】昨日開催、令和元年最後の柔術大会=第1回令和柔術選手権で、柳澤率いるエクストリーム海老名は団体優勝を遂げている (C)MMAPLANET
MARTIAL WORLD Presents 日本の道場のマット事情を尋ねて巡る──旅、第三弾は神奈川県大和市にあるX-TREME EBINA 大和支部に柳澤哲裕を訪ねた。
新潟で柔術を始めて16年、サラリーマンとして柔術に情熱を燃やし、稽古から指導、そして道場経営、さらに柔術に専念するようになった柳澤の柔術家人生、指導論、道場運営論とは。
──柳澤さんが柔術に興味を持ち、また実際に柔術を始めるようになったきっかけは何だったのでしょうか。
「もともと格闘技ファンで、UFCも第1回から見ていました。グレイシー柔術とかの時代からですね。当時は新潟に住んでいたのですが、J-Sportsでムンジアルやの放送があって、道着を引っ張り合って世界一になれるのかって(笑)。打撃がないからなんですけど、スイープとかも格好良くて凄く客がわいていているのを見て、やってみたいなと思うようになりました。
でも通える柔術道場もなかったのですが、その1年後ぐらい……2003年ですかね、パラエストラ新潟を渡辺孝先生が立ち上げた時に入門したんです。僕も剣道や空手をやっていたのですが、寝技に興味があってもやる場所はそれまでなかったです」
──渡辺孝さん!! 佐藤愛香さんと一緒にムンジアルに挑戦していて、凄く懐かしいです。渡辺さんは寡黙で、レスリングと柔術の融合の走りのような柔術家でした。
「ハイ。僕はもう30歳を過ぎていて……、そうそうにあばらをやったりして(笑)。道場に通っているのは純粋な柔術家だけでなくサンボ経験者やレスリング経験者もいて。渡辺先生も試合の時はレスリングベースですが、指導はしっかりと柔術の基本を教えてくれました。ゴツゴツもそうだし、佐藤先生もいたので柔らかい柔術も教わりましたね。でも入門して3カ月ほどで、転勤になってしまったんです」
──何と!!
「それで東神奈川で竹内政司先生がされていたエクストリーム柔術アカデミーに通うようになりました。新潟は若い人が多くてガチンコ道場的だったのが、エクストリームは同世代のオッサンも多くて和気あいあいとした道場でした。柔術ってこういう楽しみ方もできるスポーツなんだと思いましたね」
──当時、柔術は今よりMMAにリンクしていたと思われるのですが、柳澤さんの柔術観とはどういうモノだったのですか。
「私は競技柔術でしたね。J-Sportsの中継で見たホブソン・モウラのスイープとか、MMAでは見られない技に魅了されました。ポジショニングも殴られる位置から返す方が、興味を持ちましたし。余談ですが、ホビーニョってノヴァウニオンじゃないですか? 柔術魂とか創られることになるBJ・ケンさんがもともと知り合いで、彼の方が先にノヴァウニオン・ジャパンで柔術を始めていたんですよね」
──沢田さんと!!
「ハイ。共通の知人がいて、新潟から後楽園ホールにパンクラスとか見に行っていたんです(笑)。それで会場で会ったりして、まさか柔術の雑誌を創る人になるとは思わなかったです(笑)」
──そして、柳澤さんご自身もエクストリーム柔術で柔術にどんどんハマっていったと。
「試合に出るという非日常のなかで、金メダルを獲る。皆が応援してくえる。単純に嬉しかったですね。カルチャー、趣味として柔術ほど良いモノはないと思うようになりました。
道場の後輩が、僕の教わった技で試合に勝って感謝してくれる。そういうこともただ嬉しかったです。そこからチームを創りたいと思うようになっていきました。そんなか、2010年にまた転勤になり大和市に住むことになって、東神奈川から遠くなってしまったんです。
仕事もあるし、毎日通うことはできない。なら、どこかで柔術の練習を近所でできるところがないかと思って探していると、隣の座間市にサークルがあったんです。
パラエストラ八王子の青帯の人がホームページを作ってやっていて……僕は当時、紫帯で体を動かしたくて行ったのですが、『何か教えてほしいです』という感じになって。そこで白帯の子とかを指導するようになりました。結果、そのメンバーでX-TREME EBINAを創る仲間になったんです」
──そのまま常設道場を創るようになったのですか。
「2011年に震災があり、練習で使っていた施設が計画停電で使用できなくなり、練習場所を転々とするようになりました。その時、なら自分で創った方が早いのかなと思うようになったんです。それで『出して良いですか』と竹内さんに尋ねると、『うん、勝手にやって良いよ』って。そういう感じの方なので(笑)。『じゃぁ、勝手にやらせてもらいます』(笑)と2011年の秋にX-TREME EBINAをオープンしました」
──お仕事の方は?
「続けていました。ジムを開くには、時間を自分でコントロールできないといけないので、自分の部署で偉くなってシフトを作る立場になろうと」
──なかなかの確信犯だったわけですね(笑)。
「かなり計画的にやっていましたね(笑)。結局、物流部門の長になり、自分は朝早く出て夕方は道場を開ける時間までに戻れるようローテーションを作っていました」
──練習生の時、そしてサークルでやっている時には経営とは無関係です。ただし道場主になると違います。
「ホント、そうなって初めて柔術は世の中の皆に知られているモノではないということが理解できました。最初はチラシを作って配り、タウン誌に広告を出してもほとんど反応はなかったです。
ただ、その時も自分は仕事をしていましたし、趣味の範疇でやっていたので時間が掛っても良いから、口コミで広まるように取り組みました。SNSも今のように盛んでなかったですしね。そのためにも、まずキッズ・クラスを始めることにしたんです」
──キッズ・クラスを設けるとなると、さらに帰宅時間が早まりましたね(笑)。
「もう、そこは相当にやりました(笑)」
<この項、続く>