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【Special】ブラジルから日本へ。格闘技が変える。ダニロ・ザノリニ<02>「人生を切り開くチャンスを──」

Danilo Zanolin【写真】生徒たちの人生も背負って、ダニロは戦っている (C)MMAPLANET

ブラジルからたった1人で日本にやって来て16年、今ではダニロ・ザノリニの開いたブラジリアン・タイは母国に11支部、日本にも11の道場を持つ一大ネットワークに成長した。

ダニロが心血を注いで弟子を指導者に育てる。それは母国でも日本でも厳しい時を過ごす人々が成功するチャンスを与えることを意味していた。
<ダニロ・ザノリニ インタビューPart.01はコチラから>

──そうならないケースも少なくないですよね。

「ブラジルから日本に来る人は皆、お金を集めるために来ています。そのことばかり考えているから、今の楽しみを後回しにしています。人生を忘れちゃっている。だから僕はジムを作って、ブラジル人も会社と家ばかりじゃなくて、練習して友達ができればと思ったんです」

──それは良いストレスの発散方法にもなるし、今の生活をエンジョイできる手助けにもなりますね。

「でも、まだまだです。お金を貯めるためにご飯もちゃんとしたものを食べないし、友達も作らない。ストレスが溜まって、日本が嫌いで、日本人も嫌いになる人もいます。日本語も覚えられないし、ブラジルのことしか考えていない」

──ブラジルに帰国した時のことを第一に考えているのでしょうね。

「でも、帰られないですよ。お金は簡単に集まらない。もっと簡単だと思って日本に来るけど、難しいです。ダニロは蟹江に2年いて、仕事の関係で岐阜県の可児に移り、ジムをスタートさせました。そこで蟹江で教えていた人とはバイバイしないといけなかったけど、最初から可児では友達を作ってジムを開くつもりでいました。

最初は体育館で日曜日に指導を始めました。それから生徒が多くなったら、『先生はなぜ試合に出ない?』って聞かれて、じゃあ頑張ってみようかって。20077年にタカダ・ヒデオさんがやっていたバトル・フロントっていう大会に出ました」

──今では可児だけでなく、小牧にもジムがあります。

「ねぇ、可児の方が生徒は多いです。ブラジル人が多いけど、日本人の生徒もいます。日本の人はジムになかなか入門しない。でも、入ると辞めない。ずっと練習します。ブラジル人は面白し、温かいからずっと続けますね。まぁ、2013年に美濃加茂のソニーの工場がなくなって、可児のジムでもブラジルに戻る人もいましたけどね」

──対してワールドカップ、そして五輪とブラジル経済は一時期かなり発展しているように伝わってきました。その後は、ちょっと問題があるようですが。

「ブラジルの経済はダメです。今まででも最悪だと思います。これからまた日本に来たいと思う人は増えるでしょう。ブラジルは住むのは楽しいけど、生活は難しい。ただ、ブラジルの景気が良くなった時もダニロはブラジルに戻るつもりはなかったです。1年に2回か3回、帰国しているし。

それにブラジルに戻ることができない人もいます。お金がなくて。だからダニロのところでは空手のようにムエタイでも帯制度を敷いていて、緑帯や黒帯になるとインストラクターになれます。

そして、ブラジルに戻ってジムを開いた人もいます。今、ブラジルにはブラジリアン・タイは11支部あるんです。皆、ダニロのテクニックを学んで、インストラクターになってジムを開いた。だから、年に2、3回ブラジルに戻って指導しているんです。

あと日本にも11支部あります。ダニロが教えてインストクターになり、今は教えている。それが本当に嬉しいです。皆が人生を切り開くチャンスを与えることができます」

──素晴らしいですね。ダニロの弟子の弟子が日本にもブラジルにいるわけですね。

「ブラジルでセミナーを開くと、お金がなくてご飯もちゃんと食べられないよう人が、ダニロにご飯とビーフを食べろってご馳走しようとしてくれます。

ダニロはご飯を食べるお金はあると断っても、ダニロに食べてほしいって言ってくれます。それもブラジル人なんです」

──分かります。悪い人もいるけど、根の優しい人が多い。

「そう。温かいです。3カ月前にブラジルに戻った時、セミナーを開くためにレシフェに行きました。そこでショッピングに行き、時間があったから映画を見ようって向こうの友達を誘ったんです。

彼は42歳なのにお金がなくて、初めて映画館でシネマを見たって言っていました。ダニロがいないと、1人で映画なんて見ない。でもダニロと一緒でダニロが見たいから映画館へ行くって。凄く嬉しかったです。良い人達です。ブラジルの経済が悪くなったら……楽しくてもブラジルは厳しいです」

<この項、続く>

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