【Column】「After Run 01」
【写真】これまで本当に数多くのグレイシー姓を持つ柔術家の取材をさせてもらった。その全てが財産になっている。上段左からヘナー、カーウソンJr、ハレック&ホリオン大魔王、ヘンゾ、下段左よりホイラー、ヒリオン、カイロン&カリーニョス、シーザー
※本コラムは「格闘技ESPN」で隔週連載中の『10K mile Dreamer』2011年5月掲載分に加筆・修正を加えてお届けしております
文・写真/高島学
1996年7月7日、バーリトゥード・ジャパン96が行われた当日、僕は新宿区百人町のスポーツ会館で行われていた全日本サンボ選手権の取材を終え、大急ぎで今は無き東京ベイNKホールへ向かった。
格闘技通信が出すVTJ96増刊号で雑感ページと、佐山サトルからヒクソンにVTJのチャンピオンをベルトが送られた記事を任されていたからだ。キャリア1年と7カ月の新米記者には、9試合も行われた試合レポートの仕事は回ってこなかった。
世界を放浪し、数々の格闘技を現地で見てきた経験は、当時は何の力にもならなかったが、下積みを経験させてもらえた最後の世代として、本当に幸運だったと思う。
そのペイペイ記者は、思わぬ機会を得て、初めて記者としてヒクソン・グレイシーと口を聞くこととなった。大会終了後のフェアウェル・パーティの席で、この年より始まったCX系の格闘情報番組=SRSのメインキャストの藤原紀香嬢が、ヒクソンにインタビューをするときの、通訳を急遽パーティ会場で、命じられたのだ。
本来はその役にあったUSA修斗の柳沢ヒロミさんから、『私、朝日があんな風にホイラーに負けて、ヒクソンの通訳なんてできない。高島さん、やってよ』とお願いされてしまったからだ。
ヒロミちゃんでなければまかり通らない正論で、お鉢が回ってきた形だ。ただし、この時はヒクソンと何やら挨拶をし、つたない通訳業務を行ったことをよりも、紀香嬢というTVに出ている人と話したことの方が強く印象に残っている。
【写真】アマリロのUSWFで掌底ルールで戦ったハウフ・グレイシーにインタビュー。中央の目力の強い人物は、現AKAの柔術コーチであるデイヴィッド・カマリロだ
それから5年、安西グレイシーが健在の格闘技通信でフリーライターとして使ってもらっていた時代に、グレイシーの姓を持つファイターのインタビューを任されることは、テキサスとリオで例外的にハウフとハイアンの取材をしただけで、一度としてなかった。
皮肉でも嫌味でもなく、格通内に存在した年功序列のおかげで、僕は俗にいうところのビッグネームでなく、世界中に散らばっているダイヤの原石、あるいは日本で知られていないだけで、十分過ぎる実力の持ち主を取材するというライフワークを持つことができた。何者でもなく、才能の欠片もなかった自分を育ててくれた当時の格通には、本当に感謝している。
2001年、アンデウソン・シウバが修斗世界ミドル級王者になった翌月、その格通を離れ、この仕事も辞す決心をしたが、ゴング格闘技の宮地編集長から『UFCの取材をしてほしい』と声を掛けてもらい、業界に残ることを決めた。
それはライター業6年目にして、初めて海外渡航費を支払ってくれるというオファーだった。宮地体制のゴン格は、翌年10月に第一回終焉を迎え、再び宮地さんのゴン格が復活する05年3月まで2年少し、再び格通で海外レポートを主に執筆させてもらった。
僅か10カ月しか続かなかった第2次宮地政権下では、UFC渡航費はカメラマンの巨匠に回し、僕はブラジリアン柔術やグラップリングを中心に、2年半振りに渡航費を捻出してもらえる取材を行うことができるようになった。
世はPRIDEブームの絶頂のなか、宮地さんは『PRIDEがなくなっても、キックやその他の総合、柔術で雑誌が売れる時代にしないといけない』と、2001年秋と同じ言葉を繰り返し、GONG Grappleなんていう、(現時点で)生涯で一番楽しかった仕事を与えてくれた。
そんな頃、総合格闘技界では『寝技は悪』というような風潮の幅を利かせるようになっていた。グレイシー・ハンターとしてPRIDE人気を切り開いた桜庭和志のコンディションの悪化と黒星が目立つようになってきたこの頃。ヒョードル、ミノタウロ、ミルコ、そしてハリトーノフがヘビー級四強と呼ばれた時期に、LAで初めてヒクソン・グレイシーのロングインタビューという機会を得た。
彼が開催したブドー・チャレンジという道着着用の組み技大会を手伝っていた旧知のブラジル人から、日本人選手の招聘を依頼され、IFプロジェクトの浜島邦明君の協力を得て、小室宏二、青木真也、高瀬大樹、故・小齋武志さんをブックした。
『柔術家でないが、柔術を理解した組み技師を揃えてほしい』という、かなり無茶な要求に対し、自画自賛になるが、要望以上のメンバーに出場してもらうことができた。結果、ヒクソンも大満足で、普段は1000ドルのインタビュー費用が必要になることも少なくないインタビューを受けることを、当人から申し出てくれたのだった。
(この項、続く)