【a DECADE 04】10年ひと昔、2003年4月12日SHooto Holland
【写真】大会終了後のドレッシングルーム。後列中央(左から5人目)がマルタイン・デヨング。一番左はマルース・クーネン、3番目がアウグスト・フロタ。マルタインの右隣からADCCの重鎮となったフィンランドのマルコ・レイステン、お馴染みヨアキム・ハンセン、アレッシャンドリ・ペケーニョ、右はしがウーモア・トロンペット。前列左はペケーニョやドゥドゥの打撃コーチだったトニコ・ジュニオール、今ではリオのX-GYMのトレーナーをしている。
MMAPLANET執筆陣の高島学が、デジカメにカメラを変更し取材するようになってから10年が過ぎた。そこでMMAPLANETでは、10年周期ということで高島が実際に足を運んだ大会を振り返るコラムを掲載することとなった。a DECADE、第4 回は1週間遅れで振り返ることとなってしまったが、10年前の4月12日。オランダはキューレンボルグで開始されたリアルファイト・プロモーション主催プロ修斗公式戦「Holland vs World-road to Tokyo-」を振り返りたい。
Text & Photo by Manabu Takashima
今となってはキューレンボルグが、オランダのどのあたりにある街かもあまり覚えていない。間違っていたら、申し訳ないがユトレヒトの近くだったろうか。記者として、そして記事を書いている人間として、大会レポートやジムのルポなど事実関係をハッキリとしないといけない原稿は、当然、何らかの手段をこうじて事実関係を調べ、文字を認めるようにしている。ただし、コラムで自分の過去を振り返ったり、インタビュー原稿で自分の話した部分は素の知識をさらけ出すようにしている。、自分の知らなかった出来事、事実を調べ上げて、さも元々知っていたような活字は見たくもない。記者として、チョットした拘りで、ひょっとしたら矜持といえるかもしれない。
だから、ここではキューレンボルグがどこだったが、分からないままにしておきたい。決して、調べものをするのが面倒だということではないのであしからず(笑)。
リトアニアBUSHIDOのビッグイベントを取材し、コペンハーゲン経由でオランダ入りした僕は、ズウォーレという小さな街で、米国人エンジニアに嫁いだ家内の親友の家に宿泊させてもらい、格闘技通信で執筆を開始する以前からお世話になっていたアムス在住の遠藤文康さんらと旧交を温めながら、オランダで行われた11ヵ月年振りのプロ修斗公式戦の会場へ向かった。
リアルファイト・プロモーションは、現在のGLORY首脳の一人、日本では欧州あるいはオランダ修斗代表として名が知られているマルタイン・デヨングが競技運営の修斗とは別に、プロモーション活動を行うために起こした会社だった。11ヵ月振りの興行というのは、当時(も今もだが……)オランダではMMAイベントの開催を認める自治体が非常に限られているということだけが理由でなかった。この大会がリアルファイト・プロモーションにとって、3度目のプロイベント開催だったが、前年5月に行った第2回大会が大幅な赤字を計上し、プロモーターとしてのマルタインは大きな負債を負うことになってしまった。
極真空手からスポーツ柔術、そしてブラジリアン柔術&修斗とスポーティな道を歩んできた彼は、ブラックなイメージが強かったオランダの格闘技界にあって、銀行員という職をもって格闘技と関わってきた新しい世代。第2回大会の興行的に失敗により、蓄えを失い、車を売り、引っ越した。そして修斗のジャッジになろうと、MMAの勉強をしていた彼女とも別れてしまった。それでも彼はキック王国である母国、そして欧州でのMMAの普及という夢を諦めることはなかった。
束の間の格闘技界専従生活を終え、マルタインは他に仕事を持ちながらアマ修斗を開き続ける。結果、愛弟子マーク・ダンカンが近隣でジムを営む関係でアマ修斗を開催したこともあったキューレンボルク市で、プロ興業の開催が許可されることになる。スポルトハル・インテルゲイは、700人も入ればいっぱいになるかという小会場、全てが手作りの小イベントの客席作りなどを手伝っていたのが新しい彼女、カンボジアから政治亡命しオランダで育った、とても小柄なシーだった。
ブラジルと北欧フィンランド勢は飛行機でオランダ入りを果たしていたが、国内組は当然として、スイスやベルギー、フランスやドイツから出場したファイター達は、友人やコーチたちのドライブで大会前日あるいは当日にキューレンボルグに集まってきた。ルタインが欧州のMMA普及の第一歩として開くようになったアマ修斗に関係してきたファイターやコーチばかり。アマからプロという道筋が、日本だけでなく10年前のオランダを中心とした欧州には一部、完成しつつあった。
【写真】78キロ契約マッチに出ていたシアー・バハドゥルサダ。当時はルミナに憧れ、足関節や三角絞めを多用していた。
「オランダ×世界」なんて威勢の良い大会名がつけられていたが、全16試合中最初の6試合はアマチュアの試合。プロ4試合目には18歳のシアー・バハドゥルサダが出場、フンベルト・ベーネンダールを三角絞めで下している。メインでアレッシャンドリ・ペケーニョの愛弟子、ルタリーブリの新鋭として注目を集めていたドゥドゥ・ギマリャエスをヒザ蹴りでKOしたのは、ダニエル・ヴェイケル。この日、32人ものファイターが出場していた同大会だが、10年たった今、現役として名前を聞くことができるのはシアーとヴェイケルぐらいだ。
【写真】ドゥドゥ・ギマリャエスをヒザでKOしたダニエル・ヴェイケル。今年2月のM-1での勝利でプロ戦績31勝8敗としている。この試合がプロ2試合目、つまり彼も10年選手になったということだ。Bellatorシーズン8フェザー級T優勝のフロド・カズブラエフに勝利している。
プロモーター業も兼ねていたダンカンをギロチンで下したメティン・ヤクートは、米国に足を運びATTなどで練習を積んでいたが、結局はメジャー・シーンに登場することはなかった。ヤクートやダンカンだけでない、スイスからやってきたミノタウロ・ノゲイラの弟子オーガスト・フロタ。当時の欧州では最高レベルの組み技の攻防を見せたドイツのマリオ・スタポルとフィンランドのサウリ・ヘイリモ。フランスで将来が嘱望されたカッシム・アナン。オランダのアマ修斗、そしてプロ修斗のリングに上がった彼らの夢が、叶うことはなかった。ただし、そんな彼らこそ、欧州のMMA第一世代として、歴史に名を遺さない功労者であることは間違いない。
【写真】サウリ・ヘイリモとマリオ・スタポル。マリオも現役、キャリアは19勝17敗でかつての弟子のような活躍はできていない……。
オランダのテコンドー王者から、アマ修斗ダッチ・オープン優勝を経て、この大会でも勝利しているウーモア・トロンペットは、もうそれこそ10年以上も付き合っているマルース・クーネンと昨年4月にGRIPという道場をアムステルダムに開いた。マルタインといえば彼もまた、昨年、本当に長い年月を経てシーにプロポーズ。エンゲージを交わした。そんなシーとの交際期間も常にMMA普及に奔走し続けてきた。
【写真】ややケニー・フロリアン似のアウグスト・フロタは、スイス在住のブラジル人。5年前に現役を退いたが、フロタ・チーム・ノゲイラの看板選手で、この大会ではアマ修斗に出たいたイヴァン・ムサルドはスイスを代表するMMAファイターとして、今も活躍している。
世界最大のキックイベントを開催するGLORYにあって、彼は今も人材育成大会から大晦日イベントまでMMAイベント開催に奔走し続けている。そして、ある程度の成功を収めた今、彼にスポーツとしてのMMAを、その頭と体、ハートに叩き込んでくれた日本の格闘技界に恩返しをしたいと本気で考えている。ホント、この10年で20キロは体重が増えたマルタインだが、やけにその背中が大きく見えるようになったのは、決して体重増だけが原因ではない。