【Column】四角い、あるいは八角形のジャングルの賢人
【写真】時にはトゲのある言い回しで、反スポーティブなMMAプロモーションの批判をすることもあるが、口調が静かなので大学の教授の説明のようにも聞こえる。
※本コラムは「格闘技ESPN」で隔週連載中の『10K mile Dreamer』2011年11月掲載分に加筆・修正を加えてお届けしております
文・写真/高島学
9月24日のDREAMにビビアーノ・フェルナンデスのセコンド、そしてジャッジとして来日していたマット・ヒュームと総武線の各駅停車で、バッタリと顔を合わせた。
大会前夜、後楽園ホールで行われていたプロ修斗を観戦していたマット。来日18年を迎えたといっても、まさかJRで移動をしているとは思いもしなかった。
空席の多い各停で、並んで座った彼は開口一番こう言った。「今日の修斗で戦っていた70キロのファイターたち。エドゥアルド・フォラヤンに勝てると思うか?」
フォラヤンとは、9月3日にシンガポールで旗揚げしたONE FCのメインで勝利したフィリピン人で、散打をベースとしたストライカーだ。翌週には愛弟子のデメトリウス・ジョンソンがドミニク・クルーズの持つUFC世界バンタム級王座に挑むというのに、話題はフィリピン人のフォラヤンになる。そんなところが、いかにもマットらしい。
対戦相手の正面に立ち、思い切り打撃を振るいながらも、組まれても倒れないフォラヤン。レフェリーをしながら、フォラヤンのスタンスや打撃に興味を持ったらしい。
PRIDEではジャッジ、UFCには選手を送り込み、しっかりとビジネスしながら、常にマーシャルアーツとしてのMMAを模索してきた。PRIDEのジャッジをしていたからといって、必要以上のPRIDE礼賛など聞いたことはない(今はよく懐かしがっている)。UFC全盛の今、そのルールに異を唱え、自らがルール・ディレクターを務めたOFCでは、寝技でのヒザ蹴りを復活させている。
かつて英国MMAをリードしたケージレイジでは、ロープを網の目にしたネット・オクタゴンを発案し、安全性を絶賛された。ワシントン州に戻れば、ジェネシスという人材育成大会を主宰するマット。パンクレーションという名を用い、MMA大会を開くようになって、既に17年が経過した。
1966年7月、ブルース・リーがスーパースターへの道を歩み始めた年にシアトルで生を受けたマットは、警察官の父が柔道や武術を習い、モハメッド・アリのファンだったことに影響を受け、少年期からマーシャルアーツに夢中になった。
レスリング、糸東流空手、柔道、ローキック禁止のPKAキック、ボクシングにジークンドー。可能な限り多くのスタイルを学んだ彼は、セントラル・ワシントン大学時代に、既にパウンドを導入したエクストラ・フルコンタクトと命名した総合武術のトレーニングを始めている。
その後、パンクレーションと名を改めた総合武術は、UFCの出現によって、マットの生活の全てとなった。99年にヒザの負傷により志半ばで現役引退を強いられるも、彼のMMAへの思いが枯渇することはなった。マットが現役を退く5年前、世界を放浪中にカークランドのAMCパンクレーションで初めて言葉を交わした僕らは、その後、日本は当然として、米国各地で顔を合わせた。
そして、会うたびに、マットの純粋なマーシャルアーツへの思いを耳にしてきた。同時にその豊富な知識と巧みな話術を堪能させてもらった。
98年暮、ヨドバシ・カメラでデジモンのカードを買うのにつき合った時、「今はポケモンでなく、デジモンなんだ。マナブも子供ができれば、格闘技だけでなく、そういう世の中の流行を知ることになるよ」と苦笑いを浮かべていた。
愛すべき家族との営みを重要視していたマットだが、アメリカ社会では考えられない自宅不在率の高さに、最初の結婚生活は手放さざるを得なくなった。
実家に戻り、人生の再スタートを切った02年。シアトル郊外カークランドのタイ・レストランでディナーを取った時、彼は家庭を失った後悔の念を口にしながらも、MMAのスポーツ的発展を願う言葉を連呼していた。
再婚し幸福な家庭を築く今も、走り過ぎた日々を顧みているのだかどうだか……、マットは世界を飛び回り、各地でマーシャルアーツ談話に講じている。
――総武線は、あっという間に代々木を出て、新宿に到着した。フォラヤンのスタンスについて熱く語っていたMMA界の賢人は、穏やかな笑みを浮かべてハグをし、西口に向かい、階段を下りていった。