【Column】「Berofe Run 01」
【写真】2005年10月、LAで初めてヒクソン・グレイシーのインタビューを行った。この仕事を始めて、10年と10カ月のことだった
※本コラムは「格闘技ESPN」で隔週連載中の『10K mile Dreamer』2011年4月掲載分に加筆・修正を加えてお届けしております
文・写真/高島学
「マナァブサン」――。
初めて、その独特の発音としゃがれ声で、下の名を呼ばれたとき、首の後ろが熱くなるのを感じた。
2005年、10月。この仕事を始めて10年目になってなお、ヒクソン・グレイシーは取材対象とは思えない雲の上の存在だった。
1993年11月に始まった――目潰し、噛みつき以外の全てが有効で、体重制限もない格闘技のあり様を専門誌で目にした。ケン・シャムロックやジェラルド・ゴルドーに勝ったホイスが、優勝賞金の使い道を尋ねられ、「彼女とディズニーランドに行く」と答えていたのが、物凄く恰好良かった。
そのホイスの「グレイシー柔術のためなら死ねる」という発言。彼の父エリオが、40年も昔に木村政彦と戦っていたこと。エリオの兄カーロスが講道館の前田光世を師事し、グレイシー柔術のルーツとなった――などなど、センセーショナルな事柄が、専門誌の活字で躍り続けるようになった。
グレイシー柔術とアルティメット大会=UFCは、当時通っていたサンボ道場でRINGSやパンクラス、K-1に代わり、すぐに話題の中心になっていった。とはいえ、ホイスの名言にシビれつつも、「でも絞めばっかりで、他の関節技はどうなのか」など、グレイシー柔術に疑いの目を向けていたのも事実だ。
その後、道場の誰かが映像を入手し、実際にファイターたちが、あのルールで戦っているシーンを視た。
「これはやったらアカンやろう」という感情が、ごく自然とわき起こった。みんなが大騒ぎしたゴルドーの顔面蹴りや、素手のパンチもそうだが、一番寒気を感じたのが、「相手を傷つけずに勝つのが柔術」と、華麗な言葉を吐いていたホイスが、馬乗りの状態で見せた頭突きだった。
つなぎ技とはいえ、躊躇なく頭を振るうホイスを見て、男の浪漫を掻き立てられた舞台は、格闘技の持つ影の部分をどこよりも強く感じさせる場だと思うようになった。
そんなホイスの衝撃的なデビューの前後に、僕自身はヒザの靭帯断絶を経験した。ちょっとした目標があったため、『周囲の筋肉が発達しているので、少しの間なら手術を待てます』という医師の言葉を引き出し、金属片で固定できるサポーターを着用し練習を続けた。
と、今度は薬指をスパーリング相手の道着に巻き込み、螺旋状に骨折。もう26歳、社会人になって始めた格闘技だし、すぐに潮時だと感じた。それは、僕の人生で本当に短期間ながら、色々と得難い体験をさせてもらったサラリーマン生活の潮時も意味していた。
尊敬する叔父の「石の上にも3年。3年は何があっても我慢しろ」という言いつけをギリギリ守り、退職金が支給される直前、勤続2年11カ月で辞表を出すことを決めていたが、その予定が2カ月早まった。
誰だって会社には、数々の不満はある。だから、そんなことは仕事を辞める理由にはならない。給与面や福利厚生には満足していたくらいだ。ただただ、そのまま年を取るのが怖かった。「毎日、ここに通って、土日は友人や彼女と過ごし、結婚して年を重ねる。このまま世界のこと、何も知らんと死んで行くんか。何のために生まれてきたんや」という我儘な疑問が、日に日に膨らんでいった。
これが会社を辞めた理由の全てだ。辞表を上司に差し出すと『やめてどうする?』と、引き留めているというよりも、面倒事を押し付けられたような表情があからさまだった。「南極以外の大陸で、朝日と夕焼けを見てきます」という返答に対し、『人生を何だと思っている。真剣に考えているのか』と、怒鳴り声が返ってきた。
「お前みたいになりたないからや」という言葉を飲み込み、『考えた結果です』と返答した。
そんな頃、いよいよ格闘技界ではグレイシー・ブームが賛否両論のなか大きくなり、専門誌では毎号のように特集が組まれるようになっていた。そして、スポーツ新聞に掲載された専門誌の広告で、オクタゴンに入ったホイスの横に寄り添う、ポニーテールの男の姿が目に入った。
荒いモノクロの印刷からも伝わってくる、異様な迫力と眼力の強さ――、それがヒクソン・グレイシーと分かるのは、放浪中に欧州で、何かの縁で目を通した格闘技通信だったように記憶している。
(この項、続く)