Column 「南の大きな島のキーラン・ヘウィット」
【写真】1999年5月23日、ニューサウスウェールズ州リズモアの小さな会場で、初めて日本以外で行われたプロ修斗公式戦の勝者となったキーラン・ヘウィット
※本コラムは「格闘技ESPN」で隔週連載中の『10K mile Dreamer』2011年2月掲載分に加筆・修正を加えてお届けしております
文・写真/高島学
ベリー系のジャム? それともチョコレート? 黒いけど、真っ黒というわけではなく、茶色を何重にも重ねて濃くしている――ような黒。それがベジマイト。パンに塗って食べるこの食品、オーストラリアとニュージーランドではポピュラーだが、お味の方は恐ろしく不味い。まるで、味のない『江戸むらさき ごはんできすよ』的な奇妙なテイストだ。
1999年10月から11月に掛けて、そんなベジマイトが、我が家に3週間ほど、常備されていたことがある。僕や家内にベジマイトを毎度のように勧め、断られると『美味しいのに』と、寂しげな表情を浮かべていたキーラン・ヘウィット。
この年の5月に海外で初めて開催されたプロ修斗公式戦。第1試合(試合順は4試合目だったが、3試合目まではアマ修斗が組まれていた)に出場、国外初のプロ修斗公式戦ウィナーが、このキーランだった。ニューサウスウェールズの海外沿いで育ち、ちょっとしたバッドボーイとして名を馳せた彼は、ダウンアンダーの流儀に従い、葉っぱ漬けのサーファー生活を送っていた。
マリファナと波乗りは、喧嘩好きと同意語といってもいい。ゼンブカンという名の格闘技ジムで、この国で生まれたばかりのMMAにのめり込んでいったキーランは、プロ修斗デビュー戦をきっかけに、豪州修斗代表ラリー・パパドポロス率いるスパルタン・ジムに移籍。知人のつてを頼りに東京に武者修行にやってきていた。
当初、その知人宅に寄宿していたのだが、総合格闘技なんて、ほとんどの日本人が知らなかった時代、何かと不便が多かったようで、師パパドポロスから、『面倒をみてやってもらえないか』と電話が掛かってきた。そんなことがあって、僕が住んでいた目白のアパートへ、キーラン君はベジマイト持参で、やってきた。
自費で東京に来て修業をし、修斗北沢タウンホール大会に出場することが決まったキーラン。コンビニに行って、ミルクと間違い大量の飲むヨーグルトを買ってしまい渋い顔をしていたのが、つい昨日のようだ。
彼の滞在中、大阪のプロ修斗に出場したマルタイン・デヨングとラフロス・ラロス、後の欧州修斗首脳がK’zファクトリーで出稽古を行うため我が家で寝泊まりを始めた。
2LDKの家は、さながら合宿所の趣となっていた。僕と家内は当然、日本語で会話をし、マルタインとラフロスはオランダ語、そして僕らとオランダ勢、僕ら&オランダ勢とキーランが話すときは英語が標準語となる。
そんなある日、キーランが「みんな、自分の国の言葉と英語を話せるのに、俺は英語だけだ……」と呟き、俯いて落ち込んでしまった。マルタインとラフロスが笑い声とともに、『お前の国の言葉は、100カ国語話せるのと同じだ。世界共通語だ』と慰める。そんなオランダ組も、ベジマイトには閉口していた――。
朝、昼、晩、僕らは顔を合わせると、欧州や豪州、米国と日本など文化と習慣の違いを話題にした。そんな時、必ずといっていいほどキーランは、夢中になって、ゼスチャーつきで豪州の話を聞かせてくれる。ただし、それは政治や経済、世相の話題ではなく、コアラやウォンバット、あるいはカモノハシといった豪州特有の有袋類、あるいはグレート・ビクトリア砂漠に生息する昆虫やクロコダイルの話題だった。
「俺、悪さばっかりやっていて、勉強もしていないし、薬をやっていた影響で計算とか凄く苦手なんだ」と頭を抱えるキーランを、誰もが愛しく感じ、末っ子のように可愛がった。試合直前にわき腹を負傷したキーランは、マルタインの勧めで近所の中国整体に通い、痛みどめを施してリングに上がった。
結果は惜しくも判定負けだったが、激しい痛みに耐えたキーランの頭をマルタインとラフロスが、撫でまくっていた。キーランが帰国した後、彼のお父さんから、『一時期、ヤク中になっていたが、格闘技のおかげで立ち直れた』こと。『日本という国の文化に触れ、最高の経験になったよう』など、非常に丁寧なお礼の手紙が届いた。
【写真】今、何をしているのか。その気になれば調べることもできるだろうし、ソーシャルネットワークを使えば反応もあるだろう。でも、なんだか無粋な気がするので、このままにしておきたい
04年に結婚して一児の父になったキーランと、メルボルンの試合会場で会ってから7年が過ぎた。2年前に最後のリングに上がったこと以外、目白のアパートの末っ子が今、何をしているのか一切分からない。一家団欒、ベジマイトを食べていることを願っている。
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