【Interview】フィリピンMMA界のパイオニア、アーウィン・タグレ
【写真】1978年11月7日生まれのアーウィン・タグレはフィリピンMMA界ファンダーの一人、指導者として非常に尊敬されている(C)MMAPLANET
11月17日、PXC34のメインで同プロモーション・ライト級王者アレ・カリに挑み、3R終了時TKO負けを喫したアーウィン・タグレ。会場人気ナンバーワンだった彼にとって、これは6年振りのファイトだった。
高層ビルが立ち並ぶメトロ・マニラで一、二を争うビジネス&ショッピング街にジムを持つタグレに、彼の歩んできたフィリピンMMAの過去を語ってもらった。
――今回は未知のフィリピンMMA界に関し、パイオニアの一人といえるアーウィン・タグレに、この国のMMAの状況について話を伺わせてください。
「もちろん、何でも聞いてくれよ。みんな、知らないけどフィリピンのMMAにはもう15年近い歴史があるんだ」
――URCCが活動開始した2002年以前にMMAがフィリピンに存在したということですか。
「そうだよ、1998年や1999年にはMMAを練習する者が出始めた。僕自身は2003年にFearlessという大会で、ブラジリアン柔術の茶帯だったマイルス・ヴィヴェスと戦い、腕十字で敗れた。
その敗戦後、フィリピンのナショナルチーム・レスリング、柔道のナショナルチームなんかで練習をするようになった。スティーブン・カンパオの下で柔術のトレーニングをしていたけど、暫くしてからラルフ・ゴーのATOS柔術で学んでいる」
――そもそもタグレ選手がMMAで戦おうと思った理由は何なのでしょうか。
「1994年かな? 16歳の時にジークンドーを始めた。コンセプト的にはMMAに非常に似通っている。MMAに必要なものは、ジークンドーで学べた。本格的にMMAの練習をするようになったのは1999年だけど、当時は柔術を習う場所もなかった。だから、僕らはビデオを持ち寄って、友人の家の庭で練習したりしていたんだ。
そうしているとフィアレスやURCCというプロモーションが活動を始めた。MMAで初勝利を挙げたのは、URCCでローリー・チュルハンというラカイの選手と戦ったときだった。この試合後、バギオシティに行って、マルケス・サンギアオやエドゥアルド・フォラヤン、ケビン・ベリンゴンらチーム・ラカイの皆と練習をしたんだ。
ケビンなんて、まだまだ子供でキムラやノースサウスチョークを教えてやったよ(笑)。2カ月間、ラカイで練習して次の試合に臨んだ。当時のURCCは2Rで決着がつかないと自動的にドローになるというルールで、リチャード・ラスプリージャとは2試合連続で痛み分けだった。
あの頃は1年に2大会ぐらいしかフィリピンでMMAは開催されていなかったけど、今では毎月、もしくは2カ月に1回は行われるようになった」
――そんなにMMAが開催されているのですか。今でもURCCとPXCぐらいしか日本には伝わってこないですが。
「アンダーグラウンドの試合が多いからね。MMA WARSなど小さい大会もあるけど、レベル的には打撃しか練習したことがない人間が、MMAルールで戦うだけなんてケースも少なくない。まぁ、経験を積む場があるのは悪いことではないとは思うんだけどね……。
それにURCCは歴史こそ長いけど、認知度はそれほど高くなかったのが実情なんだ。試合中継も未だにケーブル・チャンネルだ。その点、PXCは地上波のTV中継を持っているからね。その影響もあって、今、凄くフィリピンではMMA人気が高まっている」
――サブミッション・スポーツとして活動を開始したのは、いつからですか。
「1998年に練習を始めたところは、古いボクシングジムに間借りをしていた。指導もしていたけど、家賃が高すぎてビジネスとして成り立たなかった。それが、今ではフィリピンでもMMAに投資するというビジネスマンが増えてきて、まだ正式オープンはしていないけど、大きな場所を借りて、ジムを開くことができるようになった。
マーシャルアーツは規律、尊敬、名誉を学べるもの。それがMMAだと、世間に訴えていきたい。フィットネスのようにただ体を大きく、あるいはセクシーにするだけじゃない。マーシャルアーツを学ぶことで人間として、成長できる場がジムだということを知ってもらいたい」
――ジムの正式オープンはいつになるのですか。
「最初は7月のつもりだった。それがアレ・カリと9月1日に戦わないかとオファーがあり、その試合の準備のためにオープンをずらすことにした。そうしたら試合が11月に延びて、ジムのオープンもそれだけ遅れることになった。頭が痛いよ(笑)。内装の工事と練習で頭がいっぱいだった」
――でも、正式オープンをしていないのに、かなりの数の練習生がいました。
「みんな、前の小さなジムで練習していたジム生だよ。5年間、ここの入口ぐらいの大きさのところで指導してきた。UFCを筆頭にMMAがアジアで大きく成長していることで、投資をしてくれる人が増えたんだ。
以前はUFCを見るにはインターネットも無理で、VHSの海賊版ビデオを探すしかなかった。今はオープンTVで視聴できる。まさに10年ひと昔、URCCがダカダ(DAKADA=10年周期)というイベント名を付けていたけど、誰もMMAなんて知らなかった」
――MMAはマニラでどれくらいの人気なのですか。
「見るスポーツとしての人気は高まっているけど、お母さんが子供にMMAを習わせたいというほどではない。マニラの人々、その辺りはまだ保守的な部分もあってね。MMAは非常に危険なスポーツだと思われているきらいもある。ボクシング業界も、そんな目線でMMAを捉えているんだ。でも、少しずつ良くなってはいるよ。
PXCやURCCの影響もあるし、何よりもUFCをオープンTVで毎日のように見ることができる状況は大きい。その影響もあってMMAは見て楽しむモノと思われている節があるから、実際に練習できるスポーツだと啓蒙していきたい」
――なるほど、いきなり世界最高峰が目の前にあるというのは、スポーツとしては現実味のないモノなのかもしれないですね。
「そうなんだ。だからサブミッション・スポーツではテイクダウンの有効性、蹴りの有効性を訴えている。ここでは9度SEAゲームス(東南アジア競技大会)柔道王者のジョン・バイローン、ムエタイのナショナルチームメンバーだったユージーン・トケーロが指導している。彼がチームに合流することは、MMAが何たるかをマニラの人々に理解してもらえるステップでもあるんだ」
【写真】アレ・カリのパンチ力に屈したアーウィン・タグレだが、彼に続く人材がフィリピンMMA界を背負っていくことになる(C)MMAPLANET
――メトロ・マニラでは現在、どれぐらいのMMAジムが活動しているのでしょうか。
「練習しているところ自体は多いよ。そのなかでもしっかりと活動している大きなジムは3つで、小さなものが10カ所ぐらいかな。
僕もまだまだ勉強中の身だけど、10年前にはこんな規模のジムを持てるなんて思ってもいなかった。MMAは急速に認知されるようになってきた。だからこそ、MMAの本当の姿を皆に理解してほしいんだ。MMAは人生の一部だからね。そのうちフィリピン人ファイターの需要が日本でも高まってくることを願っている。
特に僕のようなフライ級のファイターは、日本で戦うチャンスが巡ってくる――そんな日がやってくることを熱望しているよ。日本は格闘技の母国だからね。柔道、カラテ、極真、ブラジリアン柔術だって日本の柔道から生まれたようなものだ。
それにドー(道)、ウェイ・オブ・ライフという意味がある格闘技は日本にしか存在しない。ジュツ(術)は人殺しの技だ。そんな話をジョン・バイローンからずっと聞かされてきたんだ。彼は若い頃に何度も日本を訪れ、柔道のトレーニングをした経験があるから。
日本でフィリピン人ファイターが活躍するには、まだアップグレードする必要があるけど、エドゥアルド・フォラヤンやユージーン・トケーロ達は日本で戦っていける可能性がある。だからこそ、もっと組み技の練習をしないといけない。立ち技は凄いモノを持っているからこそ、ね」