Column 「巨匠っ!!」
※本コラムは「格闘技ESPN」で隔週連載中の『10K mile Dreamer』2011年1月掲載分に加筆・修正を加えてお届けしております
文・写真/高島学
「あの人に余計なことを言って、怒らせるなよ」。
1995年1月にこの仕事を始めたとき、初めて東京という街で生活するようになった直後、とある先輩からそんな指導を受けた。この世に生を受けてから23年を関西で過ごし、その後の3年間を名古屋、1年近くの海外放浪を経ての東京暮らし。最初の数カ月で、嫌というほど東京の人間と、関西人の思考や習慣の違いを思い知らされた。
関西に住む間、何かミスをしたり、勝負事で良い結果を残せなかった近しい者に対し、ストレートに励ますということは余りなかった。おちゃらけた言葉で、気分を紛らわせる、それが僕の思うところの関西の流儀。例えば、部活動で結果を残せなかった友人に対し――。『恰好悪ぅ』と言って、笑顔を浮かべるといった次第だ。
これと同じことを親しくなり始めていた東京の人にやってしまい、『あんたに言われたこと、一生忘れないよ』と、物凄い目で睨まれたことが、トラウマになっている。
この冒頭に書いた――怒らせるなと先輩に忠告を受けたカメラマンさんは、リングサイドでTVカメラマンともめたり、平気で血相を変えて怒鳴り声をあげる人だった。気が短いことでは、右に出る者がいないと自覚している僕でも、余計な一言を発さず、カメラマンさんの逆鱗に触れないよう心掛けていた。
その後、そのカメラマンさんとは何度も何度も海外で一緒になった。海外・放浪生活を経験しているという共通点もあるせいか、年齢やキャリアの関係なく、半人前の話によく耳を傾けてくれた。
1997年10月、ミシシッピー州ベイセントルイスという田舎街のカジノのテントで行われたUFC15。前の週に別大会を取材し、一足先に現地入りしていた僕は、車で2時間近く掛けルイジアナ州ニューオリンズの空港まで、彼を迎えに行った。にも関わらず、到着ロビーに現れた彼は、フライトで長い禁煙状態が続き、不機嫌極まりなかった。
この取材中、ホテルの部屋で休んでいる時に、スズメバチに右足の小指を刺された。プレス用の宿からカジノまで、レンタカーの運転は僕の役目だったので、取材に出る際、「左足でブレーキを踏むので、上手くいかず急ブレーキになるかもしれないです」と、予め断りを入れた。
『何言ってんだよ。こっちは運転してもらっているの。気にすんなって』と心優しい言葉が返ってきた……にも関わらず、駐車場内で最初にブレーキを踏んだ直後、『なんて、ブレーキしやがるんだ!!』という怒号が、車内に鳴り響いていた。
ソムリエ級の舌の持ち主で、僕が知る限り最上クラスの健啖家。全米でリカーショップを回り、手に入るなかでは最高の部類のワインを、幾度となくご馳走してもらった。ベイセントルイスでも、美味いか不味いかぐらいしか判別がつかない舌の持ち主のくせに、美味しい酒に目がない僕に、『そんなに美味いなら、いくらでも飲んでいいから』と、笑顔でワインを勧めてくれた。
アッという間に一本を空けてしまい、『お前、俺の分がないだろう』と、大目玉を食らった。ネットなんて普及しておらず、デジカメもなかった時代。海外での取材は、帰国後の忙しさとは裏腹に現地では余裕があり、夜を徹して格闘技や仕事、人生について意見交換することができた。
カメラマンさんの一貫した成長したいという姿勢と、努力を重ねる姿に触れることで、僕のなかに下らない遠慮はなくなっていた。時を経て、ネット時代ラスベガスのホテルの一室で、主張がぶつかり、殴り合い直前に至ったこともある。 大会終了後は、個人的な会話は一切なくても、写真選びからデータ化など、仕事に必要な言葉だけが僕らの間を行き交っていた……。
「相手の良いところを見て、仕事をしろ」。「できない人間を叱るな。自分の懐を深くするように生きろ」。「高島君が言っていることが通らないなら、俺もその時は○○○から一切、手を引くよ」。
いつまでも大人になりきれない僕を叱咤し、時には涙を流して激励してくるNさん。余計なことなんかじゃない、理不尽なことをすると、逆鱗に触れる。 東京者も関西人も、北海道民もない。人として、道を外さない大切さを、巨匠は教え続けてくれる。