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【Bu et Sports de combat】武術の叡智はMMAに通じる。武術の四大要素、間を制している状態─02─

Cyborg【写真】サイボーグは空手家ではない。しかし、彼女は間を制することができている。彼女の質量がクニツカヤと違う理由は武術的には意が違うということになる (C)Zuffa LLC/Getty Images

MMAと武術は同列ではない。ただし、通じている部分が確実に存在している。ナイファンチン、クーサンクー、パッサイ、セイサンという型の稽古を行う意味と何か。

そこには武術の四大要素──『観えている』状態、『先を取れている』状態、『間を制している』状態、『入れた』状態が存在し、無意識な状態で使える次元、レベルを高めるために型稽古が必要となってくる。

間を制する編、第2弾は時間と空間を絶対化する──状態は、空手独自のモノなのか。他の打撃でもあり得るのかといいう問題から、打撃練習の形、そして質量を左右する意について剛毅會空手・岩﨑達也宗師の話を引き続き訊いた。

<武術の四大要素、間を制している編Part.01はコチラから>


■型はドレミファソラシドを学ぶモノ

──ボクシングやムエタイの構えでは、ここまで説明していただいた間を制している状態、時空を絶対化することはできないでしょうか。

「結論から言いますと、どのような構えだろうが絶対化している状況はあります。ムエタイの凄い人、ボクシングの凄い人……ナジーム・ハメドなんて、相手のパンチを被弾しても全く効いていないように見えましたよ。

自分の歌いたいように歌い、踊りたいように踊り、殴りたいように殴っている。あの時、ハメドは距離と時間を自分のモノにしていたように思います。そんな彼ぐらいになると、空手の構えなど必要ないでしょう。

問題はハメドのようなセンスを持っている人間が、この地球上にどれだけいるのかということです。だから、原理原則として型が存在しているのです」

──それが武術の再現性だと。

「と同時に、誰もが自分の格闘技があります。MMAでは型にない動きをする必要がある。それが打撃という一側面だけにも当てはまり、剛毅會で稽古をしている子でもスパーリングでカカト落としを使います。

それは型にはない動きです。ただし、型をやることで原理原則に落としこめているので、自分の技としてカカト落としを使える。それは原理原則が分かっていない状態でのカカト落としとは違う技になっています。

その子なりのセンスでやっているのですが、どのようなセンスの子にとってもドレミファソラシドは同じ。型によって、ドレミファソラシドを勉強するということなのです」

──その感覚なのですね。ドレミファソラシドがある、つまりはレールが敷かれていることだと思います。そして、時空を絶対化した場合の打撃の威力は並々ならぬもの。それだけに、逆にガチスパーでないとマススパーには向いていないと感じました。マスだと本気で打ち込めないので、絶対化という状態になり辛くないでしょうか。

「本気で打って、当てないことが前提の稽古になるかもしれないですね。きっと、マススパーでああいう風な勢いのある動きっていうのは、今言われたように見ていると危ないと感じると思います。だから、『当てるな』と伝えてあります。

つまり、そういうことで空手は寸止めになったのではないかと思います。その後のポイント空手云々ではなく、寸止めの始まりとは。

例えば江戸時代に剣道をやっていた人は、幕末になると人を斬れなかったという話も残っています。その一方で、木剣で型稽古のような形でパターン練習をやっていた人がそうではなかったとか」

──ただし、MMAは殺し合いではない。本気で打つのは、倒すためです。それでも精神状態は揺れます。間を制している状態の話とは違ってくるかもしれませんが、恐怖や圧迫感が相手の攻撃の威力に関係してくるのではないかと。

「大ありです。例えばクリス・サイボーグが、先日行った防衛戦ですが(3月3日、UFC222におけるヤナ・クニツカヤ戦)にしても、クニツカヤは彼女よりも質量が低い相手だと、あのように脆い選手ではないはずです。

MMAでも殺意はあると思いますよ、私は。倒すと殺すに差はないはずです、戦っている当人たちは。サイボーグの質量は、クニツカヤに対して高過ぎた。全く違いました。その差に何か、やはり殺意です」

──意、なわけですね。ここはニヤリとしてしまいます。

「ハイ、そうです(微笑)。決して意識ではありません。中国武術などで、とても重要視される意です。意とは、つまり本能の発動です。

同じルールの下で戦っていても、殺意を持って殴ることができる人間と、そうではない人間がいます。これはボクシング・グローブからMMAグローブに変わるだけで、本能の発動に影響が出て来る場合すらあるのです」

■マススパーとガチスパー、そして実戦

──立ち技だけでなく、組みが入ることで自らの質量が落ちるストライカーも多く存在しました。

「弱気になると、質量が落ちます。そして、本能的に殴ることに於いて、殺意があるかないかで質量が変化し、当然のように殺意のある人間が間を制します。

本気で殴り殺そうとしている素手と、刺すのを躊躇している刃物では当然質量は素手の方が高く、刃物を持つ相手にも間を制すことになります。

質量とは気温や湿度のように具体的に存在し、測定できる事象ですが、それを理解し実践できる人間にしか、良し悪しを判断できないのが悩ましいところです。

Gokiつまり問題は防具をつけようがつけまいが、そして約束組手だろうが、どのシチュエーションに対して、準備しているのかということです。稽古の話に戻しますと、マスのためのマススパーリングではいけないということです。

真剣で斬りあえないからこそ、竹刀と防具でないといけないのです。竹刀で防具を攻撃するためではなくて」

──なるほど、ではガチスパーでなくても、真剣に相手を倒すことを想定した当てないマススパーが有効だということですね。

「これは剛毅會の子たちの話ですが、ガチスパーだと当たった時の恐怖を知っているので、全くもって動きが悪くなります(笑)。だけど、試合のなるとまた別なのです」

──ガチスパーは身内でやるものではないということですね。

「そういうことかもしれないです。やはり、机上の空論やいつ起こるか分からない路上の現実を想定しているのではなく、何カ月に1回は自分を倒しに来る相手と戦うわけですから。ここにマススパーとガチスパー、そして実戦という三層のミルフィーユがあるということなのです」

──ミルフィーユは三層ではないですが(笑)、その三層構造はやはり試合経験のある岩﨑さんらしい、失礼な表現方法かもしれないですが、ただ武術を唱えるのとは違う発想かと思います。

「私も極真時代、同門と試合をすることがありました」

──それが極真魂だと称賛されていましたが。

「でも先輩と戦う場合、後輩と戦う場合でそういった意に微妙な変化はありましたからね」

<この項、続く>

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