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【Bu et Sports de combat】なぜ武術空手に型の稽古は必要なのか─01─「自分の、相手との状態を知る」

Koyomi【写真】松嶋こよみは数少ない──といより、ほぼ存在しない型の稽古を行うMMAファイターだろう(C)MMAPLANET

型、中国武術の套路をルーツとされるなか沖縄で手の修得に用いられた。それが空手の型だ。元々は一対一、あるいは極小人数で稽古が行われていた型は、明治期に入り空手が体育に採用されることで、集団で行う体力を養う運動へと変化した。

現状の競技空手には組手と並んで型(形)競技も存在していることは、幻の五輪イヤーで多くの人に知られることになった。空手の攻防の技を一連の決まった動きにまとめ、敵がいることを想定して演舞する──形競技。パワー、スピード、バランスを踏まえたうえで技の正確性を5名の審判員より判断される。

躍動的であり、美しい。そんなイメージの型競技だが、果たして実戦や競技空手で役立つことはあるのか。その関連性は非常に薄いことは伝統派ポイント空手、フルコンタクト空手共にいえるだろう。

そのなかで伝統派競技空手でもフルコンタクト競技空手でもない剛毅會の武術空手は、型稽古が重要視されている。MMAで活かせる理を持つ武術空手になぜ型稽古が必要なのだろうか。それぞれの型を解明していく前に、その必要性を剛毅會・岩﨑達也師範に問うた。


──武術空手にとって型とは、何なのか。もちろん、それは型競技の型ではない。剛毅會空手になぜ型は必要なのでしょうか。

「最初に言えることは、型を使って戦うということではありません。使い方は指導します。私が武術空手の指導をするようになって15年経過しましたが、そのようなことは一度もなかったです」

──例えば打撃のミット打ちや、レスリングの打ち込み、柔術のエビでも実戦に転用できます。しかし、武術空手では違うと。それでも型稽古を行う理由は?

「型は打ち込みやミット、エビとは違います。ある状態を学んでいるんです。繰り返しますが、型を使って戦うということはありません。型の稽古とは、決められた動作を行って自分の内外に生じる様々な状態を学ぶことを目的としています。

歩幅にしても、ほんの少しの差で体がブレてしまうことがありますが、正しい状態にするとブレない。ナイファンチなら、左を向いたら右に隙ができるだとか、色々な状態を勉強するのが型なんです。

ただし、型も弄ってしまっているとその勉強にならないんです」

──弄っているとは?

「指導者、先生の考え方が入ってくると変わってしまうということですね」

──しかし、型は流派によって名前が同じでも動きはもう違うかと。

「ハイ、相当に違います。ですのでナイファンチと言っても、私が言うところのナイファンチと他の方が言うナイファンチは違うと思います。だから、あくまでも私がやっているナイファンチに関して言及させてもらうと、ナイファンチを通じて自身の状態を確認するということなんです。

今、自分はどのような状態なのか。体がどういうことになっているのか。拳の位置だとか、先ほども言った歩幅、足の位置、視線、自分の状態で攻撃が届くのかという点において、相手との関係も変わってきます。相手との距離が長くなったり短くなったり、自分が攻めやすくなったり、攻めづらくなったりする。それが相手との状態ですね。

だから自分の状態と相手との状態、両方を考えながら多くのことを学ぶ。それが型の稽古です」

──武術の理は、本来スポーツ、競技会とは違うところにあります。ただし、スポーツで勝つのにも生きる。では型というのは、武術を極まようとして修行者だけでなく、試合に勝つ競技者にも必要になるということですか。

「例えばボールを投げられ、バットを振ってホームランを打ちたいと思った時に、ボールにバットを当てて飛ばしたいと思っただけで、その結果を得ることができるのか。そのボールは見えているのか。ボールに対し、自分のバットの振り方はどうなのか。ホームランを打つには、色々と欠かせない要素があるわけじゃないですか。空手の組手も同じで相手の攻撃をしっかりと見て、攻防一体の攻撃をすることが理想的です。

結果としてボールを打ってホームランにしたいのだけど、自分の状態だったり、自分とボールとの関係を勉強していない人は、どれだけに才能に満ち溢れていてもスランプに陥ると思います。ホームランを打ちたいという気持ちばかりで、自分の状態や相手のとの状態が分かっていない選手は、格闘技でも勝とう、勝とうとするあまりにバランスを崩して、相手に付け入る隙を与えてしまう。それと同じことですね。

空手の立ち方一つをとっても、設計図があるとしてください。その設計図があると、歩幅が違いや色々な間違いが生じていることが理解できるのです。骨盤の幅で下ろすと、カカトが真っすぐ立つ。このことによって両足が骨盤に対して、しっかり繋がっていると分かります。正しい設計図です。この設計図に対して、外側の現象が起こります」

──相手がいるということですね。

「ハイ。近くなったり、遠くなったり。それが結果的に質量と言われるものになり、統一体と呼ばれている状態だと自分の質量は上がることになります。この設計図が正しいと、統一体になります。けれども、犬でも普通に座っている時と、襲い掛かろうとしている時では質量は全く違ってきます。それが内面の状態ですね」

──犬ですか……。先ほどのように野球に例えると、どういうことにりますか。

「漫然と素振りをするのと、二死満塁でバッターボックスに立つのとでは明らかに内面は違うということですね。打撃でもシャドーではどれだけ打てても、本気でパンチを打ち込んでくる相手と向かい合うと内面の状態は違ってきます。

つまり来たボールを打とうとしていても、中の質量は当然変わってきます。だから格闘技をやろうがやるまいが、空手をやろうとやるまいが、人として生きていく上で自分の有り方により生じる、様々な現象を学ぶのに武術空手の型は有益なのです。私は型をヨガに例えることもあります」

──野球から次は、ヨガ……ちょっと難しいです。

「ヨガのあのポーズを取っていて、何に気付くかということなんです。つまり型をやっていて、何に気付くのか。そういう意味でヨガと呼ぶことがあるんです。一般的に空手と呼ぶと、武術、武道、戦う時に使う手段と取られるのが普通ですからね」

──つまり武道空手は、空手競技に挑む人や格闘技をする人だけのモノでないと。

「空手をやろうが、戦わないでいようが、日常生活でもあらゆる面で、自他との関係は生じます。その関係の自分の状態、他との状態で変化してきます。コロナ禍にある社会で、2カ月前の状態は通用しなくなっています。

剛毅會では型だけでなく、状態を理解するために中国武術の站椿を取り入れることもあります。自分の状態が理解できることで、外との関係の勉強できまるからです。なら、やらない手はないですよね(笑)。

鍵となってくるのは本人のブレない価値の絶対性ですトレンドに左右される価値は困窮する一方でしょう。そのブレない価値とは私にとっては武です。この大変な状況において、まず自分はどうあらねばならないか──私も稽古を通じて、その大切さを痛感しています」

<この項、続く

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