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【訃報】初代K-1GP優勝、日本格闘技黄金時代の基礎を築いたブランコ・シカティックがクロアチアで死去

Branco Cikatic【写真】1998年6月、サグレグのタイガージムで柔道着を着てグラップリングの練習をした後で、軌道の短いワンインチパンチについて説明をしてくれた時のブランコ(C) MMAPLANET

23日(月)、元格闘技通信のオランダ通信員・遠藤文康氏が25年以上の親交があった初代K-1GP優勝ブランコ・シカティックがなくなったことをSNSで発表した。

1954年10月生まれ、当時はユーゴスラビアだったスプリトで生まれたシカティックは1993年4月に開催されたK-1 Grand Prix’93に初来日を果たし、ピーター・アーツやモーリス・スミスといった優勝候補を破ったアーネスト・ホーストを決勝でKOし、優勝。

当時無名だったシカティックは、35歳と紹介されていたが、実は既に38歳──クロアチアがユーゴから独立する際のクロアチア紛争では特殊部隊の一員としても活躍しており、戦場を舞台に命の取り合いをしてきた彼は「キックはスポーツ」と涼しい顔をで言い放っていた。リング上でも常に冷静かつ冷酷でもあったが、リングを下りると人を喜ばせることが好きな好人物であった。

まだ世界を知らなかった日本の格闘技界、シカティックとホーストが残したインパクトが、K-1のその後の躍進の原動力になったといっても過言でない。

K-1では1997年9月まで活動したシカティック、翌月にPRIDEの旗揚げ戦に参戦後、2005年7月に現役最後の試合を行った。自らの警備会社の持つ一方で、タイガージムを主宰し2017年にはアントニオ・プラチバットが新星K-1 初代ヘビー級王座決定トーナメントで優勝し、新旧K-1で師弟が初めてヘビー級の頂に立ったことになる。

Team-BrankoシカティックはJ-MMAとも関係を続け、1998年にはズボンコ・セコリエビッチ、アンテ・ユーリシッチという2人の教え子をプロ修斗に派遣、2017年4月にはアントン・ラッドマン、マルコ・ブルシッチ、マティヤ・ウラジセビッチというクロアチア人選手とともにパンクラスに来日している。

遠藤氏によると、「死因は肺塞栓症。肺を長らく患っており、2007年ごろに一度かなり重篤な横隔膜の病気で半年ほど入院したことこともあり、体重も70キロ台まで落ちていた」とのこと。その後も肺の調子はあまり良くない状況だったシカティックは、「3年前にK-1で日本に行き、アントニオが優勝したあと、帰国して体調を崩し倒れた」(遠藤氏)こともあったそうだ。

日本の格闘技界の隆盛に大きく関係した、偉大なキックボクサー──ブランコ・シカティック、伝説の拳を我々は忘れること決してない。


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