この星の格闘技を追いかける

【New Era APmma】グアム、メルカ・マニブッセン(01)「オミアゲ」

Melchor Manibusan

【写真】エンセンとの思い出を語ってくれたメルカ・マニブッセン。1999年のADCC世界大会では66キロ級で4位入賞を果たしている (C)MMAPLANET

急激に成長を遂げるアジア太平洋のMMA。MMAPLANETでは、「New Era APmma」としてアジア太平洋地区のファイター、関係者のファイターを紹介していきたい。

第4弾は古くから日本の格闘技界と関係の深いメルカ・マニブッセン。グアムのナンバーワンMMAアカデミー=SPIKE22を手掛けるメルカに、グアムの柔術&MMAの歴史、そして現状を語ってもらった。そんなメルカのインタビュー、第一では彼と日本をつなぐきっかけとなったエンセン井上との、貴重な思い出を語ってもらった。

※現在発売中のFight&Life Vol37には「Fight&Life 格闘紀行=グアム編」として、メルカ・マニブッセンを初めとするグアムのMMA&柔術関係者のレポートが掲載されています。

――以前、ピュアブレッド大宮を訪れると、いつもメルカとビッグ・ジョン(カルボ)の顔を見ることができましたが、あれから随分と時が経ちました。

「本当にその通りだ(笑)。僕が練習をするために日本に最初に訪れたのはエンセン(井上)が、ランディ・クートゥアーと戦う前のことだ」

――VTJ98の前になるということですね。もう15年も昔の話になります。

「エンセンがその前にグアムに来たことがあって、クートゥアーがヴィトー・ベウフォートに勝った直後に、VTJで彼がランディと戦うことが決まった。当時、エンセンはまだレスリングの経験がほとんどなくて、僕はレスリングの世界選手権前にスウェーデンでランディと一緒に練習したことがあった。その話を思い出したのか、エンセンから連絡があったんだ。『一緒にキャンプを張って欲しい』って。

それから7週間、ずっとエンセンと一緒だった。キャンプを張るといっても、僕とエンセンの2人だけ(笑)。堪らないよ、僕らの体格差を考えもみてよッ!!

僕はエンセンにレスリングを教えた。そして、エンセンは柔術、キックボクシングを指導してくれた。1年前に柔術も始めていたけど、エンセンの知識は当時のグアムの柔術よりもずっと深かった。

エンセンはヘトヘトになるまで練習していたから、車の運転も僕がやった(笑)。ランディ・クートゥアー戦までの7週間、24時間一緒にいた。あの頃、エンセンはBBガンやペレット(銀玉鉄砲)にこっていたことを思い出すよ」

――自分もエンセンは冗談のつもりで、ペレットを打ってきたんですが、弾が額に当たってキレそうになったことあります。その様子を見ていて、エンセンは余計に大笑いしていたのですが(笑)。そのメルカの助力があって、エンセンは見事にランディ・クートゥアーを破ったわけですね。

「ガードからの腕十字で、だけどね(笑)。試合の1週間後、僕がグアムに戻る時にエンセンはグローブやシンガード、練習用具の一式が入った大きな荷物を僕に持たせてくれた。それらの練習道具を持って帰ってきて、僕はピュアブレッド・グアムを開いたんだ。

ビッグ・ジョンが場所を確保し、僕が練習道具を揃えた。そこからピュアブレッド・グアムは始まった」

――ある意味、グアムの柔術とMMAが本格的にスタートしたということですね。

「そう、1998年の11月だった……。僕が帰国する時にエンセンが『オミアゲ』といって、これをくれたんだ。僕にはオミアゲの意味が分からないし、彼が手に持っている何か汚い塊も何か分からなかった。

『こんなダーティなモノ、要らないよ』って内心、思っていたんだ。エンセンがオミアゲは、ギフトだって説明してくれた。でも、汚い塊だよ……。エンセンはその時、『アリガト、レスリングを教えてくれて。ずっと一緒に過ごし、ドライブもしてくれて。これを持って帰ってくれ』と、その汚い塊を手渡してきた。

その塊は、エンセンがランディ・クートゥアーと戦った時に脛に巻いていたテープだった。彼の足の形で固まったテープの塊とともに、僕はグアムでピュアブレッドを始めたんだ」

(この項続く)

【Bio】
1976年12月27日、グアム出身。スパイク22主宰

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