この星の格闘技を追いかける

【UFC85】試合直前、カンプマン インタビュー

2008.06.07

 (C) MMAPLANETBJ・ペン×ショーン・シャークの激闘から、僅か2週間しか経っていないが、今夜(7日・土/現地時間)には、ロンドンのO2アリーナで『UFC85 BEDLAM』が行われる。

【写真】デンマーク出身の26歳。マーティン・カンプマンはエクストリーム・クートゥアーの所属 (C) MMAPLANET

「大学を休学してMMAに賭けてみようと思った」
Interview by Manabu Takashima

MMA PLANETではホルヘ・リベラ戦を控え、エクストリーム・クートゥアーで調整中だったマーティン・カンプマンにインタビューを敢行。デンマーク出身のランディ・クートゥアーの愛弟子のMMAファイター人生とは?

――1年3カ月ぶりの試合が近づいてきました。

「ハードなトレーニングを素晴らしいトレーニング・パートナーと行っているから、万全だよ」


――デンマーク出身のMMAファイターは、まだ少ないですが、マーティンは何をきっかけにMMAを始めるようになったのですか。

「僕はオーフスという小さな街、デンマークでは二番目に大きな街だと思うけど――で生また。MMAは今でも知られていないようなところさ。タイボクシングとボクシングを始め、その後、プロのムエタイの試合も経験した。同時にサブミッション・レスリングもやるようになったんだ。当時はシューターズMMAの支部に在籍していたんだ」

――シューターズMMAとは、フィリピンで日本の近藤有巳選手と戦ったこともあるスウェーデンのオーガスト・ワレンが主宰する北欧でも有力な格闘技グループですね。

「そうそう、よく知っているね。スウェーデンの本部で彼に習ったこともあるし、ワレンがデンマークに来て指導してくれたこともある。まず、オープンハンドのアマチュア・シュートファイティングを1戦経験し、シューターズも時代の流れに則してレギュレーションを変更したから、次の試合からはオープンフィンガー・グローブをつけて戦うようになったんだ。

めちゃくちゃ機能性の悪いグローブでね(笑)。シンガード(すね当て)をつけて、パウンドがない。そういうアマチュア・ファイトを10試合戦った。マイルドMMAって感じかな。でも、キャリアのスタートとしては凄く良かったと思っている。米国では、アマチュアでもほとんどプロと同じルールで戦っているじゃないか。ただ、ファイトマネーが貰えないだけで(笑)。8人トーナメントもあったし、色々な経験をアマチュアでさせてもらったよ。当時の仲間でプロになり、今も活躍している選手っていないなぁ。一時期、ノルウェーのトーマス・ヒッテンがプロとして活躍し、ヨアキム・ハンセンたちとジムもやっていたんだけどね」

――それだけ、北欧でプロMMAファイターになることは大変だということですね。

「そうだね、プロの試合を経験しても、それで食べていけるわけじゃないしね」

――マーティンのプロのデビュー後もそうだったわけですね。

「プロになったのは2003年。コペンハーゲンで行われたヴァイキング・ファイトにパウンド有りのプロMMAを初めて経験した。当然、ファイトマネーで生活できるような環境にはなかったよ。その後、ワレンが始めたヨーロピアン・バーリトゥードで試合もした。この頃にデンマークのミケンタ・ジムで練習していたマイク・パイルと会ったんだ」

――マイクは、それこそヴァイキング・ファイトのプロモーターだったブライアン・タラレックの下で打撃を磨き、寝技の指導をしていたんですよね。

「マイクが米国に戻って、こっちで練習するようになったときに、一度アメリカでMMAの練習をしろよって誘ってくれたんだ。当時はまだ、エクストリーム・クートゥアーでなくエグザイエンス・ジムのUFCトレーニングセンターでここのメンバーが集まり始めた頃だった。せっかくの機会だし、ベガスで練習をしていたら、WFAから大会2日前という急なオファーがあったんだ」

――WFAでの試合が2006年7月で、翌月にはUFCデビューを果たしています。

「カリブ・スターンが負傷欠場になったから、これも代役出場だったんだよ」

――このUFCの勝利で、米国に移りプロMMAファイターとして生きていこうと決心したのですか。

「いや、実はあの試合で勝ったあとはデンマークに戻り、大学に通っていたよ(笑)。学校の夏休みを利用して、米国にやってきただけだから。夏休みが終わると、普通にエンジニアリングの勉強を再開していた。2か月後ぐらいに、またUFCがオファーをくれたんだ。で、3週間大学を休んでベガスにきて練習し、ターレス・レイチに勝つことができた。この学期が終わったときに、大学を休学してMMAに賭けてみようと思った」

――家族の反応はどうでした?

「母は今でも、大学に戻れと言っているよ(笑)。まぁ、申し訳ないと思っている」

――そこまで決心したMMA人生ですが、昨年3月にUFC3勝目を挙げたのち、6月にはリッチ・フランクリン戦が決まっていたのに、ヒザの負傷で欠場を余儀なくされ、復帰まで1年掛ってしまいました。

「靭帯をカットし、筋肉も断絶した。米国はトレーニングをするための場だし、半年間もトレーニングができないと診断されたから、その間はデンマークに戻っていた。初めての大きなケガだったし、練習がしたくてしょうがなかった。だから、MMAを諦めようとかっていう気持ちには一切ならなかったよ。UFCは大きくなり続けていたしね。ただ、厳しい時期には変わりなかったから、ロンドンでホルへ・リベイラというタフな相手と戦うことが決まって、とても嬉しい。また、オクタゴンで試合ができることが嬉しいんだ」

――デンマークからロンドンまで、飛行機で1、2時間です。お母さんは応援には?

「誘ったんだけどねぇ、、、。母は僕が殴られるのも嫌だけど、僕が誰かを殴るのも見たくないっていうんだ。対戦相手に悪いって。デンマークではUFCはテレビでも見られないし、メディアもMMAに関心がない。たまに記事になると思うと残酷だ、危険だって指摘するぐらいでね。もっと強くなり、できればUFCチャンピオンになって、デンマークにMMAを定着させたいね」

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