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【OCTAGONAL EYES】ダナ・ホワイト

Dana

【写真】左が7年前のダナ。年齢を重ねるだけでなく、自信が人を変えるともいえるだろう

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※本コラムは「UFC日本語公式モバイルサイト」で隔週連載中『OCTAGONAL EYES 八角形の視線』2009年6月掲載号に加筆・修正を加えてお届けしております

文・写真=高島学

初めてインタビューしたときの彼は、シャツの襟元を大きく開くこともなく、ボタンダウンの下に白いTシャツをのぞかせ、それはそれは初々しさを感じるものでした。

2002年1月、真冬のコネチカット。

どこか肌寒いホテルの一室、日本人からすれば少し禍々しく感じるデザインのTシャツ一枚で年中OKのベガスのホテル街とは全く違う静かな環境のなか、デイナ・ワッツ――日本の格闘技雑誌的な表現を使えばダナ・ホワイト――、そうUFCとWECを司るズッファ代表に、私は初めてインタビューを行ないました。


2000年の終わりに、SEGからUFCを買い取ったズッファの舵取り役のダナ。活動初年度といえる2001年を終え、私はオクタゴンで繰り広げられる戦い模様よりも、オクタゴンの周囲に大きな変化を感じていました。

短髪で頬がこけた青年社長は「SEGとズッファの違いは、真正面からアスレチック・コミッションと協議し、UFCが普通の安全なスポーツとして歩んでいけるよう努力を惜しまなかった点」と、2001年を振り返りました。オクタゴンのなかでファイターたちがベストを尽くせば、尽くすほど、理解のない人々の目には凄惨に映ってしまう ――それがコンバット・スポーツの宿命です。

だからこそ、オクタゴン外の環境をスポーツとして整えることがUFCには必要でした。

若々しく、清潔感溢れるリーダーの存在は、ケーブルネットワークに再進出を果たし、ラスベガスでイベントを打つようになったUFCの新しいイメージに、しっかりと則しているものでした。

ただし、彼の周囲にはNHBと呼ばれている時代から、このスポーツに関わってきた海千山千のツワモノどもが行き来しており、UFCの舵取り役としての彼が見せる姿勢に対して、上から目線で捉える人間も決して少なくはありませんでした。これは紛れもない事実です。

『俺たちは、お前なんかより、この業界のことをずっと知っているんだ、若僧』なんて、言葉が今にも口を付いて出てきそうな関係者の視線をインタビュー中にも感じていました。

そんな彼らの自負も理解できましたが、私にはダナのUFCの現状と、将来に関するプランを語る言葉の方が、ずっと新鮮で興味深いものでした。

「正直いって、現時点で採算はとれていない。投資の時期なんだ。まずはUFCのイメージアップが必要だからね」というダナに対し、私は『中堅プロモーションで成長したファイターをスカウトするのでなく、ズッファ自らがハウスショーを開催し、人材の育成を行うことはないのでしょうか』という質問をしました。

当時、日本ではPRIDEがこの世の春を謳歌する一方で、自らの手で育て上げた中心選手を失った他プロモーションは存続の危機に直面していました。

人材育成という部分を大手プロモーションが考慮しなければ、MMAに未来はないという危機感を、私は大いに抱いていたのです。

「もう少し時間的な猶予をくれないか。もっとスタッフが育ってきたら、そういう方面まで考えていきたいと思う。それには時間が必要なんだ」というダナの言葉は、2005年の春に、私が考えている以上の規模で実現に至りました。

TUF、そしてUFCファイトナイトの開催を以って、UFCは自らの手で、ヤングガンたちに中堅プロモーションで育った選手以上の知名度を与えることとなったのです。

記者など、自らの資金を投資するわけでなく、すぐに理想に口にする身勝手な生き物です。その動物の短絡的な思考をも理解し、ビジネスとして理想を現実に導いたダナとズッファの手腕によって、MMAは未来を勝ち得たといっていいでしょう。

TUFの成功により、存在感を大いに増したダナは、今では業界全体のオピニオンリーダーになっています。時に口は災いのもと――を地でいくこともありますが、今のダナからは自信が漲っています。

成功したビジネス・モデルとしてMMAを選択するのでなく、海のものとも山のものともつかず、その将来性など他の誰もが真剣に考えていなかった時代から、MMAをビジネスとして成立させようとしたパッションとプランニングにより今のUFCがあります。

文字通りMMA界の首領となったダナですが、彼が記者会見で見せるちょっとした表情、微笑みには2002年冬のコネチカットをだぶらせる面影が、今も残っています。

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